5:追いつけたのだから
富士崎・旭と、飴をあげた少女が同一人物であるなら、時間の矛盾がある。
人は、成長を逆行することなどないし、短時間で十歳も年齢を重ねることはない。そもそも、七年前の人物と触れ合うことなど不可能なのだ。相手からしてみれば、七年後の人物と、だ。
なんらかの原因で、時間の均衡がおかしくなっているのだと考えるべき。
それなら、自分がこの館の中で顔を合わせたのは、七年前に高校生だった富士崎さんと、さらに過去の幼い富士崎さんと、
「『現在』の富士崎さんなんでしょう? 豊吾さん」
炎の中で、眼帯に顔を隠す女性は、思わずといった風に笑顔を作る。
太陽のような、見間違いようもない眩しく明るい笑顔を。
「だから嫌われていたかったんだ。君なら、きっとここまで来てしまうから」
焼けるスーツの袖口を、こともなげに払い、
「君を……何度も私を助けてくれた篤くんを、危険な目には合わせたくなかったんだよ」
一人ぼっちだった夜から。
火に巻かれたこの館から。
幾度も救ってくれたのだと、あなたは笑顔を寂しさに濁らせながら、
「さあ、外に戻るんだ。君が傷つくのが、一番悲しいことなんだから」
穏やかに促してくる。
きっと、この館の燃え尽きるのと一緒に、豊吾さんも命を絶とうとしているのだと、確信めいた予感が走る。
豊吾さんは来てくれてありがとう、と呟いて、
「だけど、一緒には外に出られない」
首を振る。
「元凶はこの館で、壊さなければならない。けれどじゃあ、君の思い出は? 時系列がぐちゃぐちゃで、本来あり得ない思い出を植え付けられた君が、まっとうな人間としての営みに戻るには?」
静かに強く、
「元凶を壊さなければならないだろ? 館と、君の思い出に巣食う、私の思い出を」
だから、と微笑んで、
「君を助けるには、私も消えるしかないんだよ、篤くん」
※
「君に助けられた私は、今度は君を助けるんだ」
だから命を絶つのだという、ふざけたことを口にする。
自分の人生から『まともではない』ものを、完全に排除するのだという。そうして助けるのだと。
相当の決意なことは、もうわかっている。
さっき蹴り転がした割れた濃色のガラス容器に、燃料を詰めて持ってきていたのだ。だから最初から、万全の準備をしてきているということ。
彼女が全てを終わらせるために持ち込んだビンの姿を、自分は見た覚えがあって、
「火をつける直前に、僕と会っていますよね。コンビニから逃げ出してきた僕と」
あの時に、ポケットへ隠した物と同じなのだ。
コンビニから逃げ出して、駆けこんだ先。自分は豊吾さんに出し抜かれたわけでなく、最初から彼女が待ち構える『火がつけられる直前』の館に迷い込んでいたということだ。
王子様の話をして。
抱きしめてくれて。
そして、クチナシの香りを漂わせていた。
まるで、ずっと一緒にここで会っていた、好きな人と同じように。
間違いなく、この人は富士崎さんなのだ。
なら、自分は炎の中で容易く覚悟を決められる。
「言ったじゃないですか! 思い出が抜けて、欠けることは、悲しくて嫌なことだって!」
目の前の彼女は、あの時の彼女と同じ時間帯の存在のはずだから、
「これまでだけじゃない! これから先に出来ていく思い出だって、失われてしまうなんて嫌なんだ!」
偽らざる本音だ。
覚悟はもう、完全に定まっている。この人の在り様に確信を持った時には、もうすでに。
助けなければならない。
この人が自分を助けると言うように。
自分も、恋をしたこの人を助けなければ。
喉が熱い。声を張ってしまって、熱を吸い込む量が多かったせいだろう。
必死の言葉に思いは伝わったようで、しかし、
「ありがとうな。だけど、それじゃあ君が」
「なにがダメなんです!」
否定を口にするから、こちらも否定で潰した。
※
驚いたように片目を見開くから、続けざまに、
「普通じゃなくて、何がダメなんです!」
否定を重ねていく。
「もともと、まともなんかじゃなかったんだ! 今更、好きな人と時間を飛び飛びに会っていただなんて、些細な事でしょ!」
声はかすれ、
「記憶が歯抜けになるのがなんだっていうんです! 二人で居たら、互いに埋め合わせられるじゃないですか!」
炎がさらに盛って、
「あなたが待って居てくれる場所が、僕には必要なんだ! だから屁理屈を付けて僕を置いていくなら、どこまでだって追いかけますよ!」
言葉を、立て続けに叩きつけていく。
誠心を込めたありったけの告白だ。
「わかったよ。すごく嬉しい」
だというのに、あろうことか、
「けれど、ダメだよ、少年」
諭すような顔で、さらに否定を重ねてきた。
※
「時間が隔たりすぎている。もう私は『あの時の富士崎・旭』なんかじゃない」
それは、なんともくだらないもので、さらに積む言い訳は、
「そう、隔たりがあるんだ。年齢も」
くだらない話だった。
もはや腹が立ち始めている自分は、肌を焦がし続ける熱も忘れて前へ。
「ダメだって。引き返すんだ」
表情は良く見えなくなっている。目が煙と熱で、開けているのに精いっぱいなのだ。
けれど構わず、ずんずんと顔を近づけていって、
「おいおいおい、何を考えているんだ少年。早く引き返して……っ!」
一息に抱きついて、唇を重ねた。
※
柔らかく、熱い、初めての口づけ。覚悟を知らしめるための、強行。
二秒、それから離れて、彼女の覚悟が溶けているのを確かめる。
眼帯で四半ほどを隠した顔は完全に驚きで塗られていて、
「大丈夫です。きっと、大丈夫ですから」
彼女が自分を救ってくれた言葉を、返すように囁く。
見開かれた瞳は、
「嘘みたいな話だ。ずっと、ずっと昔に終わった話だと思っていたのに」
徐々に潰れたような笑みへ細められていき、
「わかったよ。ああ、きっと大丈夫さ」
諦めたように、まなじりに涙を浮かべた。
それから、
「まるでグルーミング中の猫だなあ」
抱き返す腕に、力が籠められる。
ああ、と燃え上がり最期を迎える館が崩れるなかで、嬉しさから自分も抱く腕に力を。
なにせ、この手は届いたのだ。
「……ありがとう」
ずっとずっと、そこで待ち続けていてくれていた愛おしいあなたの元に、ようやく追いつくことができたのだから。
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