3:忘れたくないもの
息を切らせながら辿り着いた雑木林に、誰の姿もなかった。
予期していた巌洞さんもおらず、肩透かしを覚えながら館へ向かう。
すでに陽は大きく傾き影が大きくなっている時間帯で、建物も薄い黒色に呑まれ始めていた。
木々のざわめきだけで、しんと静まり返っているのもいつもの通りだ。
迷いなく朽ちた玄関をくぐって、いつも富士崎さんが待ってくれているリビングに視線を。
窓から入る微かな明かりがほんのりと照らしていて、
「富士崎さん?」
立ち尽くす人影に呼びかける。
黒く塗れるその姿がゆっくりと振り返ると、面差しに明かりがかかり、
「なんだ、遅かったじゃないか」
スーツ姿に、革の眼帯という特徴的な姿が浮かび上がるから、
「豊吾さん?」
意外、というにも言葉が足りないほどに予想外な、追跡者の姿に立ち尽くしてしまった。
いつの間に追い抜かれたのか、抜け道を使われたのか。
けれども、完全に先回りされたのは間違いなくて、
「誰もいませんでしたか?」
「うん? ああ、あたしだけだよ」
ぐるりと見渡しながら微笑んで、
「なんだい、悲しいな。違う人に会いに来たのかい?」
演技じみた言い草で、肩をすくめて見せられた。
※
手に持っている、コンビニで買っただろう栄養ドリンクの小瓶をポケットにしまい込みながら、逆手で手招き。
誘われ、一応の警戒をしながらリビングに踏み入り、疑問をぶつける。
「どこで追い抜いたんです?」
「え?」
「コンビニに入った豊吾さんを置いて、ここまで走ってきたんです。先に居るなんて、思ってもいなかったから」
「ああ……ああ。裏から抜けて、ショートカットしたんだよ。なんせ慌てたからさ」
この人の運動力はよく知っているから、あり得るか、と納得を見せると、
「まあいいさ。せっかく来たんだから、ゆっくりしようじゃないか」
笑って、一角に指をさす。
そこは、自分と富士崎さんが腰掛けている、いつもの場所だった。
自分は膝を抱えて。
豊吾さんは足を投げ出して、それぞれ腰をおろした。
夜はまだ訪れたばかりだけど、そよぐ風に熱をとられてしまうのか、ひんやりと肌寒くなってきている。
煙草を咥えたまま火はつけないで上下に遊ばせている彼女へ、
「いいんですか? 危険だから、豊吾さんたちも館への立ち入りは禁止されているって」
疑問を投げやった。
んー、と考えこむと、
「それ言ったら、少年も一緒だからな。大丈夫だよ」
言い訳にもなっていない言葉で、共犯者に仕立てにきた。
非難を込めて横目に視線を向ければ、豊吾さんは完全にこちらを正面に捉えていた。しかも、微かな笑みをたたえて。
どきりとするほど柔らかく、普段の薄ら笑いからは想像できない穏やかな笑みで、
「近いですよ、豊吾さん」
「おいおい少年。照れるなよ」
「ちょっと、や、やめてくださいよ!」
ぐいぐいと体を押し付けてくるから、慌てて距離をとって拗ねたように顔を背ける。
あはは、と笑われるが、なんだか嫌な気がしないのが不思議だ。最初は、あんなに不快だったのに。
この短い間で人となりがわかって、心理的な最適距離感覚がわかってきたのだろうか。
こちらの考え事はお構いなしに笑い終えた彼女が、
「この眼帯の話、したことあったっけ?」
唐突な質問を寄こした。
しばし記憶を巡らせて、けれど実のところ自分の頭の中は自覚のない虫食いが生じていることを思い出すから、首を横に。
「覚えている限りでは」
「王子様に会った話は?」
「昔に助けられたことがある、とだけ」
そうかそうか、と満足げに頷くと、言葉を探すように中空へ視線を泳がせる。数秒で焦点がこちらに戻ってきて、
「昔に、ちょっとした事故に巻き込まれてさ。か弱い女の子だったあたしは腰を抜かしちゃってねぇ。その時、駆けつけた人に助けられて、運よく片目の失明だけで済んだわけ」
革の眼帯を、記憶をなぞりでもするように、左の人差し指でさすり、
「自分も危ないってのにこっちまで突っ込んできて、手を引いてくれたわけよ。ありゃあ女の子が夢見る白馬の王子様さ」
微笑んで、
「結局は何か月も入院する大怪我だったけど、右目以外はキレイさっぱりご覧の通りで」
だから感謝している、と暗くなっていく、館の天井を見上げながら呟いた。
すぐ隣で、豊吾さんの傷について聞いていた自分は、出来事そのものの良し悪しなんか判断できない。
けれども『思い出』というカテゴリで今の自分に重なるところがある。
「怪我をした、怖い思いをした、という記憶って、消したいと思いますか?」
嫌な過去を、失いたいものか。
実際、現在進行で自分の記憶は失われているようだが、父親のことや母親のこと、その他諸々の辛い思い出なら、消えてしまってもいいんじゃないだろうかと考えることもあった。
けれど、豊吾さんはひどく穏やかにかつてを語るから、
「いいや。それは悲しいことだよ」
その言葉を期待しての質問だった。
※
「嬉しいことも辛いことも、自分を成り立たせる何もかもだよ。それが知らないうちに欠けるなんて、抜け落ちるなんて、とても悲しくて嫌なことさ」
「けれど、忘れてしまうもの、脳の機能で整理整頓されてしまうものなんでしょう?」
「そう。だから、慣れてしまう。つまり、諦めてしまうんだ。願うことと現実は、常に齟齬があるものだけど、頭の中だけでもそれは変わらないんだよ」
いつもと違う柔らかな口元で作られる言葉は、単純で故に強くて、だからこちらの胸を打つほどに説得力をはらんでいる。
打撃されたこの心情が、揺れて、言葉を作るから、
「賛成です。豊吾さんはさっき、大切なものだけ抱えて不要なものは整理整頓すればいい、って言っていましたけど、本当はそんなのは悲しいことだってわかっているんですよね」
だから、
「僕は賛成です」
「なんだい。悲しいことや辛いことを抱えていくのがいい、って?」
「腹の立つことも、癪に障ることも、全部です」
思った以上に、語気に勢いがついていた。
豊吾さんは驚いた顔でこちらを見ていたが、構わずに続けて、
「苦手な人だけど、あなたのことだって忘れたくなんかない。それはすごく嫌なことだ」
膝を抱く手に力がこもる。
照れ臭さもあって視線を膝に落とすと、擦れる音と人の体温が近づく気配があり、
「豊吾さん?」
「ほんと、なんて嬉しいことを言ってくれるんだ、少年」
「え?」
喜に染まる声でこちらを呼ぶ。返事の間もなく頭を抱えられたかと思うと、体ごとスーツ越しの胸元に引き寄せられてしまった。
不意な行動と、キツい煙草の臭いとで、咄嗟に逃げようとしてしまうががっちりとホールドされてしまい、逆に押し付けるように抱きかかえられて、
「大丈夫。大丈夫さ、きっと」
豊吾さんの呟きが、どうにも最近聞いたような気がして記憶を辿っていく。
虫食いがあると彼らが言う不確かな頭の中をふらふらと散策していると、ふと、鼻をくすぐる甘い香りに気が付いた。
彼女の煙が沁み込んだスーツに、隠れるように儚く浮かぶのは、
……クチナシだ。
館の外に咲いている、富士崎さんが纏う甘い香り。
外から来た折に移り香でもしたのだろうけど、
……ああ、ここで富士崎さんに言われたんだ。
偶然にも、同じように頭を抱かれながら。
花の香りで探し物が手繰り寄せることのできた満足感に、いましばらくこのままでいるのも悪くはない、なんて不埒なことが過ぎるのだった。
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