第三章:抱える記憶が待つのはきっと悲しい今だから
1:火
火が。
燃え上がる炎が、昔から苦手だった。
焚き火なんか、テレビ越しだったとしても見るだけで手足がすくむし、ライターの小さな火柱であっても身構えてしまうほど。
子供のころは、火なんて危ないものは誰だって怖がるものだろうと思っていたが、大きくなるにつれて、自分が普通から逸脱していることに気が付いていった。
さらに大きくなった今。どうにか馴れてきていて、不意に見せられても脂汗がにじむ程度で収められるように。
じゃあ、どうして火が苦手なのかと訝ると、これがはっきりしないのだ。
火事に出会ったとか、煙に巻かれたとか、火傷をしたとか。
そんな心当たりが、何一つもない。
ただ、夢を見ることがある。子供のころから、何度も見る夢だ。
立ち込める炎と煙の中で、大人から抱き上げられるのだ。
爛々と照り差す赤い熱光が逆光になるから、顔も性別もよく見分けられない。
何かを語りかけてくるのだが、周りの木が弾け崩れる音に呑まれて、よく聞き取れない。
そのうちに床へ降ろされて、怖くなった自分は炎から逃げるように駆け出していく。どちらへなんてわからないまま、背を衝かれるように。
そのうちに辺りが崩れ始めて……いつもだいたい、そこで目が覚めてしまう。
無事に逃げ切れたのか、あの人はどうなったのか、わからないまま寝汗と一緒に現実へ帰ってきてしまうのだ。
あまりにも繰り返すものだから、もしかしたら体験した出来事なのではと、親戚やご近所さんにそれとなく聞いたことがある。結果は誰も『そんな記憶はない』だった。
もしかすると、自分が炎を嫌う原因はこの夢のせいではないだろうか。などと、本末が転倒した結論を出してしまうほど、満場一致の否定である。
だから自分は、覚えていないのだ。
自分自身が恐れる理由を。
何一つとして。
※
そんな、何度も繰り返す悪夢を基点に自分探しをするのは、すごく大切なことだとは思うのだが、
「こら、霧島。寝不足か?」
学校の授業中は慎むべきである。
いつの間にか机に伏せっていた自分に、呆れたような叱責を降らせるのは低い女性の声。
引いては返す血の巡りに意識をふらつかせながら、体を起こす。広げられた教科書が現代国語であることを確かめてから振り仰ぐと、
「なんだ、顔色悪いぞ」
自分のクラス担任でもある大見倉先生が、眼鏡越しに鋭い視線を叩き込んでいた。
素行不良で有名なD組の山屋君を、眼鏡越しのひと睨みで竦ませたという眼光で見下ろされ、しどろもどろに謝るしかない自分は、
「昨日、遅かったもので……」
館から出たのが明け方で、それから眠るわけにもいかずにそのまま登校してきたのだ。
連日の気温上昇から教室はエアコンが回り始めており、
「体が冷えると眠くなるんだよな。他にも居眠りしている奴ら、気付いてるからな」
すると、一斉に机と椅子の脚があちこちで鳴り始めて、鳴らさなかった側からクスクスと笑い声があがった。
まあ、槍玉が自分で、他は安全圏か、安全圏スレスレにいるからこその緩んだ空気なのだろう。
つまり、張り詰めているのは自分と先生の間だけであり、
「夜更かしか? 勉強より楽しいことがあるのは結構だ」
嫌味、というには淡白な物言いであったが、怒られているという意識に首をすくめてしまう。
ふむ、と腕を組んで、少し考えるように首を傾げると、
「放課後、職員室に来い。よし、じゃあ一〇七ページ、八行目から……金子」
なんとも辛い宣告を残して、授業へと立ち戻っていった。
残された自分は、周囲から集まる好奇の視線に、愛想笑いを返しながら嘆息してしまう。
叱責のために呼び出されてしまったことよりも、富士崎さんに会う時間が少なくなってしまったことへの残念を大きく膨らませながら。
※
大見倉・小潮先生は、職員室でも浮いた存在である。
まあ、薄青のワイシャツにジーンズを合わせるなどといったカジュアルを通り越したラフな格好で、事務椅子に浅く腰掛け足を投げ出している姿は、大きく譲っても教師には見えないから、仕方がない。
前に素行不良で有名なD組の山屋君が、着崩した制服を注意された際、
「そんな恰好してるセンセに言われたって、納得できるか」
という、自身の校則違反は棚に上げているが、まったくの正論である反撃に対して言い放ったのが、
「職員会議で吊るされる覚悟があるのか? それなら推薦してやるぞ」
殴り倒す、と表現するのが正に的確な、反体制気質丸出しの理不尽な言葉であった。
そんな目立つ上に面立ちはクールな美人であるから、ファンもアンチも関係ない生徒も嫌っている教師もみんな「なんか、すげぇ……」の共通言語で意思統一されているのだとか。
夕日差し込む慌ただしい職員室で、我関せずの様相のまま、いつもの通り足を投げ出している大見倉先生が、
「お前、あそこの廃墟に出入りしているんだって?」
傍らに立つ自分へ、死角の外の外を突いた、意外すぎる一言を浴びせてきたのだった。
誰かに見られただろうか。だとしても、自分だと断定できる者がいるほど、交友は広くはないし。
お説教かと思っていたところへの詰問。目に見えて狼狽えてしまう自分に、
「近所の人から連絡が入ったんだよ。うちの登録証が張られた自転車があるって」
眼鏡越しの鋭い眼光に、委縮しながら、しまった、という納得を得る。
通学用自転車に発行されるステッカーだ。個別番号が印字されており、照会できるようになっているのだ
本来の用途で使う意思はなかったのだが、何に使うかわからないのと、所有の証明になればと保険をかけていたのが裏目に出てしまった。
「お前、あんなところで何してるんだ?」
なにを、と問われたなら、好きな人に会いに行っているのだけど、素直に答えるには抵抗があって、
「いや、その……」
などと、しどろもどろに。
そんな煮えない態度に、先生はため息をついて、
「霧島。もしかして、あそこの噂知らないのか?」
「……噂?」
「有名なお化け屋敷なんだよ、あそこは」
お化けなんて不合理な単語が、まさかこのクールな大見倉先生の口から聞かされるとは。
驚いて目を開くと、
「時々な、あそこで誰かに会った、っていう人間が出るんだよ。昔から」
言われて、あ、と繋がっていく。
あの『世界の平和を守る機関』を名乗る二人が言う事には、館に出入りした人物のうちから十年毎に記憶の欠落が見られる者が現れていたとか。
直近では、
「七年前の……」
「なんだ、知ってるじゃないか。悪いことは言わんから、あそこはやめておけよ」
こぼれた数字からこちらの認知を誤解させてしまったようで、仕事は終わりだと言わんばかりに、頬をわずかに緩めて見せた。
なるほど、世間的には都市伝説というかオカルトめいた話で折り合いがつけられていたのか、と納得していると、
「霧島。お前、大丈夫か?」
「……え?」
問いは唐突なものだったから、思案から引き戻されて間抜けな声をあげてしまった。
見返せば、眼鏡の奥は真剣な光に満ちており、鋭い造形もあって若干怖い。
先生は少しばかり身を乗り出すと声を低く、
「家の事情は、少しは分かっている。最近、顔色悪いし、疲れているようだし……困っていないかと思ってな」
ひどく真正面から慮られてしまい、
……いい先生なんだな。
良くも悪くも人気者である片鱗に触れることができたことへ、ささやかながら感動。
だもんだから、手を煩わせるのが悪く思って、
「大丈夫です。居眠りも、うちのことじゃないですから」
問題ないことをアピールする。嘘も含んでいないから、堂々と。
けれど、担任は納得がいかないのか、まじまじ見つめるとぎゅっと眉をしかめて、
「今日は時間ある?」
「は?」
あると言えばあるのだが、富士崎さんに会いたいという気持ちもあって。
さらには問いの意図も読み取ることができないもので、混乱していると、
「メシでも食いにいかないか?」
突然のお誘いに、驚きと、加えて諦観が襲い掛かってきた。
『大丈夫』であるという自分の真実が、『家の不具合』という事実を塗り替えることに失敗してしまったのか、と。
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