第五章:逃げた先で待つのはきっとクチナシの香りだから

1:忘れてしまう

 学校を無断欠席したあの日から。

 とりあえず、翌日に大見倉先生から職員室に呼び出され、厳しい事情聴取が実施された。

 顔面をアイアンクローで締め上げるという強硬な尋問手法を取られたため、機嫌を損ねまいとして、具合が悪かったのだと嘘をつきながら平謝りをすることに。結果、館には近付いていない旨の詰問に、嘘を重ねて回避することで難を逃れた。

 その日の夕方は、しかし先生の忠告を破って館に赴いている。

 不誠実だとは思ったが、館への出入りを禁じられてしまうのは今の自分には致命的だ。だから、どんな手段でも、どんな言葉でも、ためらいなく手段として考慮するのだ。

 不安が膨らんでいるのだから。

 富士崎さんの正体になにやら影があること。

 その影のせいで、自分らが引き裂かれてしまいそうなこと。

 だけど。

 影への懸念が、彼女に会うことで和らぐのだ。

 引き裂かれるなら、わずかの時間でも一緒に居たいと思ってしまうから。

 だから、説教された翌日も館に足を運んだ。

 さらに翌日となる今日、今現在も、学校帰りの足で館に向かっている。

 まだまだ高い夏の夕日に目を細めながら、雑木林までたどり着く。憂鬱と高揚を膨らませては混ざり合わせながら、沿うように、いつもの通り歩いていく。

 いつものように、敷地への入り口前には車が止まっており、二つの人影がこちらに気が付いて向き直る。

 挨拶をすれば、中へ入れる。最後の儀式。

 焦れる自分には疎ましい作業だが、少しの我慢だ。

 そう、ほんの少しの、我慢だから。


      ※


「館には入ってはいけない?」

 焦がれてようやく辿り着いた自分に告げられたのは、不意の一撃だった。

 両手から力が逃げてだらりと下がる様子に、巌洞さんが厳めしい顔で頷いて、

「君の記憶に怪しい部分が出てきている。これ以上の出入りは危険だ」

 もっともらしい理由を説明してくれた

 納得できない自分は、反証のため怒り混じりに記憶を巡らせる。何一つ不備が無いことを確かめると、正常だと伝えるために顔を上げて、けれど、

「いつも通りの質問だ。君の両親の名前は?」

「そんなの……待ってくださいね……」

 けれど、記憶に欠けなど見つからなかったはずなのに、

「……あれ?」

 母親どころか、毎日顔を合わせている父親の名前すら出てこない。

 え、と戸惑っていると、煙を吸い込む豊吾さんが笑って、

「本当に『忘れる』ってのは『忘れていることすら忘れて』しまうからな。住所地が更地になっちまっているようなもんだ。セルフチェックじゃ、該当箇所を素通りしてしまう」

「そんな馬鹿なこと」

 言葉を構えるが、悔しいが言うとおりだ。

 毎日のように聞いていた問い。その問い自体が頭から抜け落ちていた。

 太ももがざわめき、背中までゆるりと這い寄り舐める。

 巌洞さんが、動揺を見抜いたのか諭すよう穏やかに語りかけた。

「兆候はあったんだ、霧島君。母親の名前を口にするとき、明らかに時間がかかるようになっていた。おそらく、父親の名前から紐づけて記憶を引きずり出したんだろうが、つまりは『忘れていた』ということだ」

 確かに言うとおりだろう。それで、父親の名前も記憶から失ったから、問いそのものが自分の中で不必要なものとなって、失われてしまったのか。

 けれど、と館へ入らなければならないから抗弁をしなくてはいけなくて、言葉を作ると、

「けど、調査をしなきゃいけないでしょ? 今の中途半端な状態でいいんですか」

「なにより、君の安全だ」

 なんとも不必要なポイントで、強く拒否されてしまった。

「記憶に明らかな欠落が見えた以上、危険は大きくなっているんだ」

 七年前に起きた『富士崎・旭』の不審な大火傷を危惧しているのだろう。けれど絶対に起きるわけじゃないし、起きるとしたら実証した方がいいだろうに。

「一般人のしかもまだ子供の君を、明らかな危険に晒すわけにはいかない」

 こちらの言いたいことを先回りして潰されてしまった。

 さらに抵抗するためには、と新しい言葉を探し始めて、

「なに。いまくらいの記憶障害なら、ウチで治療すればすぐに治るさ」

 なんせ『富士崎・旭』も、致命的な状況から通常の生活ができるまで復帰したくらいだ、と歩み寄りながら笑う。

 煙草を携帯灰皿でもみ消しながら顔を近づけてくると、

「……なんです」

 垂れたままの手が、不意に掴まれ捕えられた。

「班長、このままデートに行ってきますね」

「はあ?」

 何を言い出すのか。

 だいたい、自分はこの人のものの言い方、だらしないところ、煙草の臭い、全部が苦手で、できれば距離を置いていたいくらいなのに。

 巌洞さんに助けを求めようと目をやると、

「言葉に気を付けろ」

 厳めしい大人は、鉄面皮を砕かれ苦い顔をしながら、

「監視、保護と言え」

 豊吾さんの発案自体には肯定的であるようで、絶望。

 だいたい、言い換えに何の意味が、と思えば、

「デートだとお前、歳を考えろ。捕まるぞ」

 確かに。物言い自体は物凄く納得だが、

「班長、女性に年齢の話は良くないと思いますよ」

 容疑者が無駄な抗弁を繰り返しながら、こちらの手を引く。

 抵抗して、足を踏ん張り腕を引くが、如何せん平均から見ても貧弱な体では抗いきれず、

「はは、木にしがみつくナマケモノみたいだな」

「いや、僕は……!」

「家まで送るんだぞ」

「なに言いだすんですか。そのまま『ご休憩』とかそれこそ捕まるでしょ」

「そうじゃないだろう。ここに戻らないように、という意味だ」

「だから、僕は館に……!」

 口を開けて笑う彼女に引きずられ、辿りつくべきだった場所から引き離されていく。

 焦れて焼き目が付きそうな胸を、そのままにしたままで。

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