【29 逃走】
◇――――◇――――◇
わかばは、無我夢中で走った。LARKに急かされるまま、全力で暗闇の中を。
どれだけの時が過ぎたのか。どこまで走ったのか。
この暗闇が、無限に続いているようにすら思えた。
◇――――◇――――◇
あの直後、LARKは足下に転がった端末と玩具のような小さな銃を奪い取り、朝比奈を捲し立ててこの排水溝へと逃げ込んだ。電光看板を注視する時間はなかったが、かなり深い地点まで潜るらしい。しかしコンテナ街を抜け、民警と追手と管理官たちの騒動から遠ざかってもなお、魔の手は続いた。
全身が悲鳴を上げていたが、もし立ち止まれば届かぬ手紙の一通になる。刻一刻と水位は増し、いつしか踝まで浸かった。迷路のように入り組んだ地下道は、最小限の照明のため足下さえ定かではない。一歩一歩を踏み出すごとに、冷たい雨水が全身に叩きつけられる。作業着の保温性がなければ、今頃凍えて倒れていただろう。
遅れること数十m後ろから、悲痛な震え声が、冷たく反響する。
「どこだヒナカぁ! 出て来い腰抜けぇ!」
「てめえだけ、尻尾巻いて高飛びする腹かよ!」
「ふざけんな、あんだけ人を食い物にしておいて!」
「ちったぁ応えろ! 腰巾着がいなけりゃ何もできねえのかよ!」
コンクリートの地下迷宮で、怒号と怨嗟が反響しあう。
三者は複雑な迷路を奥へ奥へと突き進む。LARKの指示に従って、ランダムに右へ左へ駆け巡る。その甲斐あってか、追跡者たちは曲がり角や三叉路に出くわす度に立ち止まらざるを得ない。
「素人で助かるぜ、こっちは仕事だからな――」
時折LARKは振り返り、あてずっぽうに
音だけが頼りとなるこの地下迷宮で、逃げ切るだけならこちらが有利だ。
わかばたちは無我夢中で闇の奥へと走り続けた。やがて本当にあたりが闇に覆われ、わかばたちは壁に手を当てながら膝で水を切るように進んだ。
追手の足音が止み、悲痛な叫びが聞こえてくる。反響と集散を繰り返し、耳元に悲痛な怒号が届いてくる。
「くそったれ――俺たちの、俺たちの金を、仕事を返せ!」
「俺たちの生活を返せ!」
「俺たちの体を返せ!」
「絶対に逃がさねえ、許さねえ――てめえだけはこの手でぶち殺してやる! てめえ
に壊された人生分、鉛玉で返してやる! サツにパクられようが豚箱ぶち込まれようが、何年掛けても探し出して、絶対に――絶対に――畜生ぉぉ!」
残響の果てに言葉は途切れ、怒号と嗚咽と銃声が虚しく地下に響き渡る。
◇――――◇――――◇
やがて雨水は膝上まで迫った。追ってくる声はもう聞こえてこない。
流れに任せて、かなり深くまで来たらしい。囂々と迫る濁流と、水をかき分ける音だけで地下道が満たされたとき、心許ないランプに照らされて、火気厳禁と書かれた看板と錆びついた梯子が目に入った。
「非常待機所を兼ねた通風孔だ。居心地は悪いが、浸水はしない」
LARKは、ボロボロになった梯子に手を掛ける。
「ここで一休みだ、上がれ」
不安がるわかばと朝比奈に、アタシの
身体が重い。
登り切って横穴の斜面に足を踏み入れた瞬間は、安堵からくる徒労感も相まって体重が倍になったかのような錯覚を感じた。通風孔は地下道全高の丁度中ほどの位置にあり、直径一メートル、奥行き六メートルはあった。十五度ぐらいのわずかな傾斜、奥からは刺さるような冷たい風が吹き抜け、重苦しい駆動音が聞こえる。
わかばは、赤い照明を頼りに奥へと進み、滑り落ちないよう注意深く腰を落とした。寒さに震え、濡れた膝を抱え、背に落ちる滴に怯えながら朝比奈を睨みつける。
「朝比奈さん、“比仲”って言うんですか?」
朝比奈は一度目を合わせると、ややせせら笑ってから俯き、しばらく黙った。
「本当に悪い人だったんですね」
額に張り付いた髪を分けながら、わかばの言葉に悪びれることもなく朝比奈は大きなくしゃみをしてから応えた。
まるで子供を小馬鹿にしているような口ぶりで。
「本当に悪い人なんていませんよ。 本当に良い人が一人もいないのと同じように」
朝比奈は、悪びれるどころか開き直っていた。どこか堂々としたような物言いだった。わかばも黙っていられなくなった。
「帰りたかったんじゃないんですか?! ご家族に、謝りたかったんじゃないんですか?! 娘さんと奥さんに、会いたいんじゃないんですか?!」
あふれだした感情は、留める術を知らない。
「何とか言ってください!」
ついに朝比奈の胸ぐらに掴みかかり、残る力を振り絞って激しく揺さぶる。狭い通気孔に罵声が響く。自分の思いも重なって、弾劾はより熱を帯びる。
「くどい」
至極冷淡な返答が、朝比奈の代弁として返ってきた。LARKはわかばのか細い手を掴み、力任せに引き寄せる。思ったよりも乱雑に扱われた衝撃で、わかばの三半規管は大きく揺さぶられた。
LARKは、聞き分けのない新人に容赦なく教育する。
「言っただろ、性根真っ直ぐで善良な奴だったら、逃がし屋なんて汚い手は使わないでも済む。 あの男、マルボロに頼ってくる奴らなんて、元から大抵ロクな人間じゃ無いんだ」
熱のこもったLARKの教育に、朝比奈は手を合わせて拝み、震えながら、また薄っぺらな謝礼を述べた。だが逃がし屋は聞き入れもせず睨みつけた。
「――依頼者の私情に口挟むのはどこの業界でも御法度だし、アタシも、アンタらの素性に興味はない――だがな」
LARKは鬼のような形相で、肩から提げた機関銃の銃口を朝比奈に突きつける。
「流石に今回はムカついてきた、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだってな」
「な、なんのことでしょうか」
LARKは無言で引き金に指をかけた。朝比奈は抵抗できそうになかった。
それを目の当たりにしたわかばは、ボケた視点の中必死で叫んだ。
「やめてください! LARKさん!」
よろよろの足腰でわかばは立ち上がり、力任せにLARKの頬を張ろうと駆け寄る。だが、生まれて初めて人を殴ろうとしたわかばに重心云々など知る由もなく、拳は空を掠めるだけで無様にLARKに倒れ込む。
「おい、馬鹿!」
わかばとLARKの二人は勢いのまま通気孔を滑り落ち、そのまま深さの増した排水路に放り出され、やがて大きな水音を立てた。
足が着かない。息ができない。姿勢すらままならない。
中身は殆ど雨水とはいえ、排水溝に頭から落ちたショックもあった。濁流に自由は奪われ、意識が遠のき始めたとき、誰かが襟首を力強く掴んでは水底から一気に引き揚げる。
「こんの、ばっかやろーが!」
わかばは呆気にとられた。感情をコントロールする余裕なんてなかった。隙を突き、掴みかかり、恩も知らずに逆上してやろうかとさえ思った。
しかし、礼儀知らずなわかばへ激昂するかと思いきや、LARKは先の怒髪天が嘘のように笑い出すと、
笑い出したその動作で、LARKは銃口をわかばに向け、引金に指を掛けた。
「ばぁーん」
空砲だった。
わかばは混乱して、怒る機会すら失った。それを見届けたLARKは、改めてわかばに告げる。
「教会育ちだったけ、右の頬を張られたら左頬にジャブとストレートだったか?」
「――それじゃ、ハムラビ法典です」
「度胸あるよお前、気に入った」
困り顔のまま睨みつけるわかばに楽しそうに一瞥すると、LARKは銃口を再び通気孔の横穴へ向ける。
わかばは、暗闇でも輝くLARKの瞳に何かを確信した。
「LARKさん――何か、知ってるんですか?」
「そんな大それた話じゃない、ただ――解ったのさ」
LARKは、凄みを利かせて言い放った。
「聞いて驚け、この男は逃がし屋を巻き添えに心中しようとしたのさ」
◇――――◇――――◇
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