【15 待合】

◇――――◇――――◇


 予報通り、夕立が降った。

 次第に強くなってゆく雨足と混雑を幾たびも抜けて、わかばは再び中央駅に戻ってきた。幾たびも訪れたというのに、この迷路の地図は頭に入らない。


 しかしバスの一件から電源の入らなかった端末をマルボロに修理して貰えたおかげで、目的地まで迷わずに済んだ。指定された喫茶店の入り口で、お下がりの派手な赤い傘を瞬間乾燥機に突っ込むと、化学繊維の不穏な臭いがかすかに立ち込める。

 身軽な服装で行くようにマルボロから指示を受けた。しかしせめてカーディガンは着てくるべきだったかと、薄ら寒い店内に足を踏み入れたときに思った。


◇――――◇――――◇


 夕暮れの中央駅は、複雑怪奇なカタコンベだった。

 その証左に、棺桶に入り損ねたアフターファイブの亡霊たちが、死に装束のダークスーツに包まれたまま店内を屯している。亡霊たちは、そのどれもが酷く深刻な表情で、病的なまでに決まりきった健康的身体にはちきれんばかりの緊迫を詰め込んでいる。ジャケットにミリ単位で合わせた体形が少しでも崩れれば、健康管理の失敗と判断され、次の商談を取り消されるかもしれない。そんな焦りが、忙しない姿勢に滲み出しているようだった。

 人は彼らをと呼ぶ。

 マルボロの託けを達成し、預けたIDを基にして開設されたわかばの口座へ給料が振込まれれば、晴れてわかばもその一人になる。彼らの身に起きる日常の苦労を対岸の火事にしていられるのも、きっと今夜までだ。


 頑張ろう、次は絶対うまくいく。標語のように胸に繰り返す。商売道具として与えられた荷物一式を肩に担ぎながら、わかばは指定された座席を目指した。

 実技試験とは言うものの、実際のところは今夜は顔合わせを兼ねたオリエンテーションだとマルボロは言った。さらりまんかどうかは知らないが、魔女の手下なのだから天使のような人間ではないだろう。身の上話でも聞かせれば人情で折れる半端な奴。雇用者であるマルボロは端的にそう評したが、結局どういう人物なのかは会うまでわからない。


◇――――◇――――◇


「プレーンカプチーノ下さい」

 無難な注文を受け取ると、わかばはあらかじめキープされていた座席へ向かう。

 重い腰を落とすと張り詰めた緊張が解け、代わりに徒労感がこみ上げてきた。徐々に崩壊してゆく泡の層を見つめながら、テーブルの足に備えられたチガへ端末を接続し、暇つぶしにニュースサイトを流し読みし始めたが、なにも頭に残らなかった。

 緊張もあって、一秒すら冗長に感じられた。

 わかばは電算室での話を思い返した。


 【逃がし屋】


 それも、高飛びや違法渡航などの介助や戸籍改竄の類のレベルを超えた、物理的な逃亡。それはマルボロ曰く、贈与交換の踏み倒しに他ならないという。

 魔女は言った。


 雁字搦めの社会の中で行き詰まったとき、何もかもを捨てた者だけが贈与交換の無限回廊から脱出できる。それは即ち、S-O-Wで培った全ての信頼を裏切る行為に他ならない。だから逃がし屋は、地位も、預金も、仲間も、家族も、愛も、名前すらも捨てさせることから始まる。


「強盗殺人と変わりないじゃないか」


 今さらながら口に出した。しかし当のわかばも、世界中の地方生活者も、この都市から帰ってきた人を見たことなどない。その的確な説明ができないあいだは、実際の現場を見てみない限り論証もへったくれもないのであろう。全ては、始まってみないと分からない。


 窓の向こう側で、曇天が発する鈍い光が一層暗くなる。天気予報によれば、雨足はさらに激しさを増すらしく、ダウナーな雰囲気が喫茶店を包む。思考や、気持ちに決着の望めないまま、時間だけが過ぎる。

 やがて思考は元の振り出しへと戻る。


◇――――◇――――◇


 S-O-Wに上る。

 かつてわかばも憧れた、田舎者たちの淡い夢。


 その最も顕著な理由として、生活の利便性、ライフスタイルの自由度を上げることはできる。しかし、厳密に考えれば都市と地方で大きな生活差は存在しない。同じ商品は通販を利用すればノマデス達が運んで来る。カウチソファの生活に慣れきってしまえば、時間も距離も感じられなくなる。レジャーやサービスが目的だとしても基本的に大抵のことは地方社会でも再現可能だ。モール最上階の各種施設へ行けば、スポーツジムもエステサロンもゲームセンターも、ほとんどがそろっている。

 憧れを理由にするには、実態は些か乖離している。地方社会に不足はない。人生の保証と目の前にそろっている代替行為の全てを切り捨て、S-O-Wに上がったところで、簡単に自由になれることができるとは言いがたい。マルボロの言うとおり、贈与交換の無間地獄に堕ちるだけだ。

 それでも年々、世界中で都市人口は増加の一途を辿る。このS-O-Wでも、許可証の審査は厳しくなった。電算室であり得ないほど追記修正を加えられたわかばの移住許可証も、そう簡単に手に入るような代物でもなかったはずだ。あの状況と、加点も減点もなかった信用値と、長年タイピストをしていた叔父という親族がいなければ、自治会役員も便宜を図ったりはしなかっただろう。


◇――――◇――――◇


 頭痛がして来た。

 現実に戻ろうとカプチーノを嚥下する。柔らかな口当たりの割に後味は苦く、量は一向に減らない。大人びた雰囲気の店内はさらりまんたちの帰宅ラッシュに伴い徐々に混みはじめる。次第に時の進み方が冗長に感じられるようになった。

 本当に、こんな場所にマルボロの部下が現れるのだろうか。


 魔女の約束の信憑性に疑問を抱きはじめた、そんなときだった。

「なあ、ここの席開いてる?」

 ふぇ、と素っ頓狂な声が喉からこみ上げる。湿り気を残した気管がむせて咳き込む。そんなわかばを無視して、声の主は向かい席にズケズケと座り込んだ。


 なんて図々しいんだ、そう思って面を上げた瞬間、わかばは息を呑んだ。


 チョコレート色の褐色肌に大粒の汗を浮かべて、あの女性客が再び現れたからだ。

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