【30 倒錯】
◇――――◇――――◇
拙い照明が、暗闇に逃げこんだ朝比奈を照らしている。輪郭はぼやけ、声もおぼろで、瞳だけが爛々と輝いている。
わかばにの目には、まるで洞穴に潜むムジナのように映った。
「今夜の逃走中、コイツは何回端末に接続した?」
通気孔へ戻ったわかばは、早速LARKからの質問に答えた。
「えっと、確か着替えのときと、連絡と、事務所のも含めると、十三回です」
「しっかり数えてんじゃねえか」
今夜の乗り換え履歴も言いましょうか、とわかばが嘯くと、LARKは小さく額を小突いた。平和ボケのアンタは気付いていないだろうが、とLARKは切り出す。
「それは、追手がアタシらに最接近した回数だ」
わかばは一瞬言葉を失った。
「いいか、このオッサンはアタシ等に隠れて追手に情報をタレてたんだ。 でもって一部始終は記事にできるよう、詳細はダイレクトで記者に送りつけてたんだ」
LARKは、朝比奈に告げる。
「クライアント、記者は死んだぞ。このバカタレの目の前で、アンタの追手の流れ弾に巻き込まれた。 契約の詳細は識らないが、これで計画はご破算だ――」
冷たい空気と換気扇の音だけが、通気孔内を満たしていた。
わかばは声が出なくなった。
追いつめられた朝比奈が、今さらになって雄弁になる。
「お――追手を撒こうと思ったんですよ! 逃がし屋さんたちが、すす、少しでも楽になればと。 あ、ああ、あの使えないクズ共ぉ! まるで人の行動監視するみたいに、しっ執拗にIPアドレス追っかけてくるから――ご、誤情報を流せばぁ!」
「てめえがジャックした段階で、位置情報がバレる仕組みだったんじゃえか!」
鬼気迫る怒号に気圧されて、朝比奈は飛び退き力なく崩れ落ちる。LARKはコンテナで朝比奈から奪った端末をジャケットから取り出し、仕掛けをバラした。
「いいかわかば、まず追手は、搾りに搾られたシャブ漬けの派遣登録者、つまりコイツの被害者だ! やけに統制とれた動きしてたのは、まだある程度マトモな頭した奴――あの記者が、後手で情報解析に回ってたからだ! なによりコイツ自身が今夜の内通者だ! チガに接続するチャンスさえあれば大まかな位置情報はつかめるし、SNSで何か呟けば状況もわかる! そうやって自分で居場所を空かしてたんだ!」
わかばは唖然とした。
地下鉄の改札、電車の座席、着替えで利用した個室トイレ、朝比奈が端末を接続する機会は十二分にあった。その半数以上を、わかばは傍らにいた。それでいて、何一つ疑いも持たずに行動を共にしていた。
港のコンテナ街に到着し、目と鼻の先に逃亡用の貨物船が控えているときですら、朝比奈は事務所のユニットバスで追手に身元を示唆していたのだ。
わかばは飲んだ大量の息を、当然の疑問と共に吐き出した。
「最初から、逃げるつもりは、なかったんですか?」
LARKは苦々しく応えた。
「――腹立たしいことにな、皆無じゃなかったのさ。それでアタシの判断も鈍ったんだ――流石に正規武装したポリ公が来たときは怯えていただろ――生きた警備ドラムをパクったのは、同機システムが民警にも伸びてるんじゃないかって勘ぐったからだろ――よほど警察は勘弁だったんだろうな?」
「――警察がダメで、殺しに来てる追手の人たちはOKなんですか? 見逃してもらえる手筈でもあったんですか?」
逆だ、とLARKが短く返す。
「金で弁護士雇って保護を訴えるなりすれば、シェルターで匿って貰うぐらいのことはできた。 裏にヤクザが控えていても、相手が素人筋だって解っているなら他に手はいくらでもあった。 所がそのどれもしなかった。 その上、コイツは模造銃に対しても、とんと無策だ」
「け、拳銃は持っていたじゃないですか?」
「アレは【デリンジャー】だ。 射程距離も総点数もたかが知れた、暗殺用の玩具みてえな銃だ。それでも弾は出る、多少は抵抗することもできたはずだ。 だが、コイツはそれもしなかった。 ただコンテナの中に隠れて、待っていた――殺してくれるやつが現れるのを」
LARKは冷たく、蔑むように言い放った。
わかばは記者の最期の言葉を思い出した。
あくまで勘だが、と念頭に置いて、LARKが真実の一端をひもとき始めた。
「自分を撃てなかった理由は、家族だな?」
ここに来て朝比奈は面を上げ、焦点の合わない目で見返してきた。わかばはふと思い出し、仄暗い照明の下、事務所で拾った家族写真を取り出して広げる。その瞬間、朝比奈が嗚咽を漏らした。
「あ、ああ――」
LARKがわかばの小さな手からそれを掴んで暗闇へ投げると、朝比奈が大きく息を呑み、脅えて退ける声が聞こえた。やがて声は悲鳴となり、嗚咽は吐瀉へと移り変わる。やがて獣の叫ぶような声に変わり、やがて異臭と呻き声が通気孔内を漂い始め、臭気がわかばの頬を撫でてはゆがませる。
LARKは、滴り落ちる吐瀉物を慎重に避けながら奥へ出向き、抵抗すら見せない朝比奈の腕を掴む。袖を肘の所まで捲り、赤い照明の下に疵口をさらした。
「やっぱりな――覚えある感触だったんだよ」
フィルムの中でのみ微笑む朝比奈の家族が、灯りを反射して朝比奈の腕を仄かに照らす。ザクロの断面のように晴れ上がった腕と、そこから滴り落ちる血膿。
「薬害病の一種だ。 売人のほとんどが罹患している」
◇――――◇――――◇
朝比奈の手首から肘に掛けてまで広がる、小豆大の痘痕の群。
「媒介感染は、しないはずですよね」
「一応はな、ただし、成人病や性病その他と合併すると
LARKの腕を全力で振り払い、朝比奈はさらにの奥へと逃げて、突っ伏した。
「撲滅したって――
男の丸めた狭い背は小刻みに震え、傍目には笑っているようにさえ見えた。
「――そんなの、誇大広告に――き、決まってるでしょう。 織部さん――でしたっけ? 若いですね、額面通りの知識を信じてちゃ、今の時代騙されるだけですよ」
肩で息をする朝比奈が、俯きながら力なく、しかし通る声で嘲笑って返す。
「――生き残ってたんですよぉ!! あの女どもの中にィ!!」
記録にしか残されていないはずの過去の感染症。
大昔の大戦争末期に猛威を振るい、戦争そのものを終結し、その反省から人類にヒトゲノムの調整技術を捨てさせるまでに至った、悪魔の落とし子。
畸形発展型エイズ。大戦期に人為的に生成され、その凶悪さから七十年前に撲滅されたはずの、遅効性ウィルス兵器。
「火遊びが過ぎて、か――大方、正規医療にも有り付けず、痛みでマトモじゃいられねえからまた薬に溺れて? よくある話だが、つくづく救えねえな、オッサン」
LARKは力なく零し、吐瀉物を避けながらその場に腰を下ろした。
再生産されることを恐れた結果、ワクチンも抑制剤も開発記録が失われ、解決手段の絶たれた不治の病。現在では、所得、階級、帰属する集団に寄らず、罹患者を孤独にして社会的に殺す。例え病状が弱くてもいずれは全身を犯され、延命措置には莫大な時間と設備費用が掛かるだろう。
特に、朝比奈やわかばが暮らしたような地方社会では、無知からくる差別や偏見とも戦わなければならない。挙げ句、類推される感染経路が限りられている以上、上京して何をやっていたかはどの道明るみに出てしまう。
もとより帰郷は絶望的だった。
「でも、それじゃ初めから逃がし屋に頼る意味が――」
ないわけじゃないさ、とLARK。
「追手に捕まって殺されて、そのまま三面記事の中に埋もれたら、ただの私刑だ。 だが逃がし屋を記事に従ってたあの記者が動けば、ひょっとしたら世間じゃセンセーショナルな扱いを受けるかもしれない――ミーハーのアンタなら、なんとなく分かるだろう?」
確かにゴシップ好きは、どんな土地にでもいる。偏見は地方の方が強い。
「とどの詰まり、手の込んだ自殺と遺言状、こじれた自滅願望の表れってとこか?」
偶にいるんだよ、とLARKは今までで一番重い溜息を吐いた。
「こんな下らない事に逃がし屋を使いやがって――」
◇――――◇――――◇
朝比奈のような虚勢で塗りたくられた臆病な人間は、本意を伝える術を知らない。まともに言葉を交わせぬ以上、誇大広告のような大仕掛けで誇示しない限り、誰からも理解されない。そう思い込んでいる。
わかばには、分かるような気がした。
選択的な情報の取捨を交えて編集を施されたニュース。均質で空虚な世界に伝わる都市の光景は、恐ろしく味気なく、多くのことを見過ごしがちになる。
インデクス、タグ、コメント。
背景も経緯も詳細も無視して、出来事の上っ面だけを伝えるワイドショー。彼らは真実では無く、読み応えに堪える物語を切り売りしている。目に引っかかる情報だけを拾い集めれば、朝比奈は都市に踊らされ追われた挙げ句、帰郷を夢見て志半ばで死んだことになるかもしれない。
そして事実彼は、それに掛けた。
途方もなく、はた迷惑な自己主張の一環として、今夜の茶番が仕組まれた。
「そんなことで、記者さんも、みんな巻き込んだんですか?」
「そんなことでも、コイツにとっては十分な理由だったんだ」
わかばは絶句し、明確に幻滅した。その前からも忌避感はあったし、馴れ馴れしい態度に嫌悪もしていた。それでも朝比奈には同じ地方出身者として、わずかながらのシンパシーを感じていたのだ。
その朝比奈が、壊れたように突如大声で笑い出す。
「――あの男、ヘンリーなんとかってのはね、あんた達を追っていたんだ。【逃がし屋】の噂を記事にしたがっていた――っへ、情報バイヤーですら尻尾掴めないネタを欲していた――まったく、三文記者風情がつけあがるから――あれも自業自得ってやつですよ」
朝比奈が本性を露わにしだした。
壊れたんじゃない、もうとっくの昔に壊れていたのだ。
「いやぁ人生って侮れないなあ! まさか、情報屋ですら半信半疑だったアドレスが、よもや本物だったなんてね! それにしても、お宅の上司も人が悪い!」
タガの緩んだ朝比奈は、人が変わったようによくしゃべるようになった。
虚勢を捨てた朝比奈は、上戸のように
「わかばさぁん! 私はね、本当は漁尾って言うんです。 わかりますか? あ・さ・る・お――漁船のギョに魚の尾のオと書くんです、凄く惨めに聞こえませんか?」
「みんな――みんなが私を嗤うんですよ――漁る男、漁る男、網元の子なのに施しがなくちゃ生きていけない、網の一つも担げない、名字も仕事も漁ってきた、嫁も娘も漁ってきた――しまいにゃあの娘は、私の種じゃないと吹聴する輩まで!」
「――わかばさぁん、あなたならわかるでしょう? 狭い
「腹違いの兄貴たちは家督を継ごうと必死で親父たちに取り繕って、妾腹から出てきた私は生まれたときから肩身が狭くて、私は――私は抜け出したくて必死だった! そうですよ――わかばさん――私は逃げてきたんだ! でもそれの何が悪い!」
呪詛を吐き、男は、恐らく生まれて初めて戒めから自由になった。
その気持ちだけは、手に取るように分かった。
過疎化と機械耕作化が進んだ地方社会は、始めから食いぶちの規模が予定されている。土地が許す限りで無理のない炭素循環さえしていれば、作物は毎年豊穣の秋を約束する。だがそれは、限りられた資源と限りられた人材で繰り返される予定調和の世界。生まれる前から運命を決定された、息も吐けぬほどに窮屈な世界だ。
これを何百年と続けるために慣習や規律が作られ、個人の意思はその都度矯正される。農村でも漁村でも、その構造は大きく変わらない。従ってさえいれば、無条件で自分を受け入れてくれるが、個人の意思決定権は概ね認められず、厳密な自由意志などはない。
「だからね、好きにさせてもらいましたよ! 自由にやらせてもらいましたよ! いやぁ、愉しかった! 女も酒も薬も、踊らされるクズ共も! みんな私の思いのまま! 薬仕込んで札束でぶん殴れば、みんな同じ! あははは! そうさ、
あらん限りの言葉を尽くし、世界を怨み、過去を憾み、胸の内に抱え込んだ呪いから解き放たれた亡霊は、もはや自らを維持する全てを失った。
すでに朝比奈薫なる人物はいなかった。
だがそもそも最初から、朝比奈薫助なる人物などいなかったのだ。
◇――――◇――――◇
ゼンマイの切れた玩具が歌い終わるように、亡霊は徐々に黙した。やがてすすり泣く声と、勢いを増した水音だけが響き渡るようになった。
「違いますよね」
わかばは、足下に捨てられた家族写真を拾った。
「それでも今日まで、生きてきたんですよね」
力なく男は答えた。
「死ねなかっただけですよ、私、意気地なしだから」
死ねなかった。この男に、その度胸はなかった。
だからこそ、男は最後の最後で再び繋がりを求めた。
自らを【比仲漁尾】という名前に繋ぎ留める何か。
おぼつかない生き方に終止符を打ち、とめどのない転落人生にピリオドを打つ何かの、魔法の呪文を。
わかばは、わずかな照明の下、濡れた家族写真を拾う。
「でも、娘さん」
ちゃんと似てますよ。
わかばがそう呟くと、暗闇の奥から声が聞こえてきた。
風か、人の声か、判別できぬほどかすかな声。
見栄と、呪詛の全てを失って、亡霊の男は、言葉にならない声に戻った。
◇――――◇――――◇
「――そろそろ仕事の話に戻ろうか」
◇――――◇――――◇
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