【04 脇道】

 ◇

 黒い網が、空一面に掛かっている。

 網には、バッタやイナゴなどの虫の脚が、無数に仕掛けられている。

 実際には、鳥を捕まえるための網ではない。縦横無尽に張り巡らされた網や垂れ下がる虫の脚には、日々の営みに必要な電流と無駄話のための回線が流れている。

 捕まるのは、きっと人間の方なのだ。


「おっと、気をつけて」


 バスの二階席は些細な振動ですら大きな揺れに変換される。生まれて初めて体験した二階席の乗り心地は、最悪だ。わかばの柔な胃の中では、急いで掻き込んだ朝食がぐるぐると踊り、三半規管も悲鳴を上げた。


「あーあ、こんなところでギアチェンしてたら後が面倒だぞ――電圧負荷もあるだろうに、大丈夫かなこのバス?」


 青年警官は小言にもぼやきにならないぐらい、好く通る声で呟く。


 気候変化に伴う穀物価格変動から始まった代替燃料高騰。それが生み出した都市部の電気自動車全盛時代は、わかばからするとあまりにもおぞましい風景を作り出した。バッタやイナゴの脚のような給電機パンタグラフが、各車の天井から電線めがけて伸びている。ご丁寧にカラフルに色分けされたそれは、初冬によく見かけたモズの早贄はやにえのようで、吐き気が収まる気配はない。


「やっぱりやめようか、バス? 次で降りて電車に乗り換える?」

 青年が手にしたエチケット袋を受け取る気にはなれなかった。余計にもよおしてくるからだ。不服そうに青年は手にした袋を座席のポケットに戻すと、またお構いなしにしゃべりまくる。


「廃統合で経路はぐちゃぐちゃ、路線図は支離滅裂。 今や主要環状線すら電気料金の高騰で速度落としてるありさまでね。 特に、中央から直接東へ向かう交通網は、乗り継ぎで料金も時間も他の二倍」

 わかばは膝の上で突っ伏しながら、はやく目的地へ着かないものかと聞き流した。

「まあそういうわけでごめんね、僕もまだ薄給なんだ――」

 二階席の天窓を見つめながら、青年は呟いた。

「市営時代が羨ましいよ、まったく」

 どこか、恨めしそうに青年はぼやいた。


 直後、再び世界が大きく揺れる。わかばは慣性の法則で揺さぶられ、勢い余って前の座席に額をぶつけた。隣で青年が制止しようと手を伸ばしていたが、遅かった。

「大丈夫かい?」

 青年は怪訝そうに訊ねた。

「す、すみません、慣れてないもので」

「どうしたのさ、さっきから」

 青年は不安そうに端末を取り出すと、手すりのチガに接続した。慣れた手つきでダイヤルを操作すると、画面には運行状況が表示される。

「結構年期入ってそうに見えたんだけどな、あの運ちゃん」

 青年が端末を一瞥する。画面に交通情報と運転手の経歴が表示される。周囲を見渡せば、少ない二階席の利用客も皆、バスが止まるたびに文句を口にした。


 走行中の配線変更は高い操縦技術を要し、送電線の配線図を丸ごと記憶でもしなければ、このバスのように度々停止しなければならない。わかばの内定率に明確に係わってきた、電気自動車運転免許のハードルを上げる一番の要因だが、この都市で運転手を務める者は呼吸と歩行の次に覚えておかなければならない。


「おかしい」

 ようやく座席にしがみついたわかばが自身のことかと訊ねると、それは最初からだよ、と好く通る声が即答した。また口ではそう言いながらも、晴三郎は端末で近隣の渋滞状況をわかばに見せてくれた。


「この辺は中央区と東区の端境はざかいにあたる。 こういう浮上装置フロー・ユニツトからも遠い繋ぎ目の区域は、どうしても位置取りが間に合わなくて隙間ができやすい。 その場合は配管整備、適切な処置を施してから改めて市政に申告して、やっと道路や駐車場になるんだ。 けど、ほとんどは管轄が不明瞭なまま、管理の及ばない未登録道になる――」


 ダイヤルをいくつかか回すと周辺の見取り図が表示された。停留所は黄点、渋滞レーンは赤点。バスは赤いレーンの道半ば、何もない場所で右折進入しようとしている。青年は何事かとでも言いたげな表情で視線を外に向けた。


「割って入った未登録道の先に停留所なんてあるわけがないし、袋小路の可能性だって考えられる。 降車申告もなければ、人身事故の類いはは半径二ブロックのどこにもない――渋滞はいつものことだけど、ならわざわざ急ぐ理由があるのか?」


 わかばは、そのまま晴三郎の視線を追った。

 すでに道は、バスの車幅すら確保できそうにない隘路あいろへ差し掛かり、地表にはまるで光が届かない。建物の隙間からは、からはちらほらとたむろする浮浪者の影が見て取れる。駅や表通りから乗車した年寄りの乗客たちが、不安そうに周囲を見つめていた。

 そんな中をノロノロと進むバスは、確かに妖しかった。

 

 青年は大きく溜め息を吐き、ジャケットの内ポケットあたりに手を忍ばせ、静かに席を立つ。去り際、好く通る小声で、しかしハッキリとわかばに釘を刺した。

「変な気は起こさない方が身のためですよ」


 青年は、不適で不自然な作り笑いを浮かべた。子供扱いされているようで、わかばはいい気がしなかった。後方螺旋階段に青年が足をかけた丁度そのとき、再びバスは道半ばで停車する。端末には降車ランプと荷物置のロック解除の通知が届いた。


 何かが、動き出そうとしている。

「気になる」


 ◇


 わかばも席を立った。生来の好奇心が角を出したのか、それともテレビっ子野次馬根性のか、とにかく酔いはなりを潜めた。しかし、あの青年の尻を追いかけるのもと癪に思い、わかばはあえて、前方の階段を目指すことにした。


 物音がしないように忍び足でタラップを下ると、丁度運転席と最前席が見える。わかばは身を屈め、手すりの隙間から様子を覗った。車内一階は、今のところ何事も起きてなかったが、すでに左右の車窓は全て壁によって塞がれている。


 薄暗く、扇風機の乾いた音だけが響く。

 車内はどこか不穏な空気に包まれている。そんな気がする。


 最前席で頬杖を突いた女性は、何食わぬ顔でずっと端末を眺めていた。濃いチョコレート色の褐色肌がわかばの目を引いた。タイトパンツから露わになった、すらっとした長い脚を、見せつけるように高々と組み悠然としている。窓の外も目に映らないのか、まるで不安そうな気配はない。


 その奥に、こんな状況下で一人降車する準備をしている乗客がいた。

 ドレッドでヘッドアートをあしらった長身の男が、床下のボックスから独りで大型の黒いトランクを取り出そうとしている。バスのセキュリティと接続された錠前を外すのに手間取っているようだ。上下ともに丈のあわない服を着ていた。


 わかばですら、怪しいと思えた。すると期待通り、それはそれはとても好く通る声が、一階の後方座席の方から聞こえてくる。


「はい、そこのお兄ちゃん止まって、そうだよ、そこのドレッドのアンタだ」


 わ、と息を呑んだ。わかばは知らぬ間に、一段また一段と自ずから階段を下りていく。降車予定だったドレッドの乗客は一瞬奇声を発してトランクから飛び退き、運転手側へとにじり寄った。

 結果的にわかばは特等席でショーを拝める位置に着いた。


「降車リーダーにカード通す前に、ちょいと僕に面ァ通してもらおうか。 何もこんな辺鄙なところで降りなくてもいーじゃなイか、二ブロック先には君の好きそうな店ァたぁくさんあるぜ?」


 抑揚を利かせ、若干高めのトーンで語りかける青年は、安いチンピラを見事に演じ切っている。妙に場慣れした物腰が、普段着ということも相まって微妙な威圧感を与える。


「おや? なんだか足下がおぼつかないね、荷物重いなら手伝おうか?」

「いや、ちょっとした二日酔いでね――今日は無理だ、届け物がある。悪いんだが、君の店には次の機会にでも」

 ドレッドの男は背面を向いている。表情は見えないが、挙動からするとかなり驚いているのがわかった。


「へぇ、お兄ちゃん郵送屋さんには見えないけどな――二日酔いだったならいいお薬知ってるよ。 そっちにも案内できるけど、ちょっとどうだい?」

「結構だ、それに俺はこう見えて薬売りだ、間に合ってる」

「ほう」

 ドレッド男が背を向けた矢先、ガチャリ、と金属が噛み合う音がする。


 乗客全員が後方をふり向く。釣られてわかばも螺旋階段から前のめりになる。

「ただの二日酔いなら、このまま見逃すんだけどな」

 片手には拳銃が握られ、もう一方には端末が握られていた。

「オイ、オイ兄弟、こんなところで抜くんじゃねえよ、ポリ公が来ちまうぜ?」

「口慎めよ兄ちゃん、そのポリ公の前なんだぜ?」

 端末の画面には民警の業務証明書が映されている。ドレッド男は叫んだ。


「し――私服警官がうろついてるなんて、聞いてねえぞっ!」

 わかばはタラップを一段下り、晴三郎の顔が見える所まで身を乗り出した。

「名札付けて巡回する私服警官がどこにいんだよ。あと運ちゃん、バスは丸ごと署で預かるからおとなしくこっちの言うこと従ってくれ。会社には後で話通す、えーっと――社員証発行者のヒナカって人でいいか?」


 ドレッド男のうろたえる声。さあさあと追いつめる晴三郎の声。

 安いドラマでしか見たことのない白熱した状況が、目の前で繰り広げられていた。晴三郎が主人公である点にはまるで納得しなかったが、わかばは自身も知らぬうちに興奮して、一歩、また一歩と、おのずからタラップを降りてゆく。


くそがQue saco! お前日系サルか、マジ最悪だ!」

 青年の表情は、今まで見たこともないぐらい不適な笑顔になった。

「そう、悪いけど副業もM&Aも受けない主義さ――ついでに言うと、後でこのバスから忘れ物が出るんじゃないかな、君は」

「そこまで調べついてんのかよ――」

「やっぱりか、あてずっぽうでも当たるもんだなこういうの」

「てめぇ! カマ掛けやがったな!」


 ドレッド男は喚き散らす。晴三郎はほぼ同時に、脇下にも何か隠していることを言い当て、さらに一歩ずつ前に踏み出す。わかばは知らぬ間に、ほとんど階段から身を乗り出していた。


 ふと横目で運転席側を一瞥すると、運転手と偶然にも目があった。肩を小刻みに震わせ、ギアに掛けた手も操作がおぼつかない。

「すごい、本当にドラマみたい」

 まるで対岸の火事の如く、わかばが勝手に興奮して、思わず口を滑らした。

 その直後、ドレッド男の目はわかばの位置を捉える。


「覗きかい? 俺も好きだよ」


 まずい、とわかばが思ったものも時すでに遅く、ドレッド男に距離を詰められ、見た目よりも長い腕で瞬く間に羽交い締めにされた。事態の急変について行けないわかばが状況を理解する頃には、すでにただの観客ではなくなっていた。


 ◇


 上京して二週間。

 念願かなって、織部わかばは主役ヒロインになれた。

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