【32 静寂】
◇――――◇――――◇
LARKは、静かに眠った。
二度軽く吸って、一度深く吐く。
酸欠や中毒にならないための特殊な呼吸法は、彼女自身の生き残る知恵か、それとも誰かに教わったのか。どちらだとしても、不安なことに変わりはなかった。わかばはLARKに身を抱え、横穴の外に落ちないよう必死で身を寄せた。
朝比奈は変わらない。壊れたとき以来、ポーズを取り繕う気もない。タマネギの皮のように無限に続く外見を剥がし尽くした先に、本物のその人がいるなら、この何も残らない抜け殻が朝比奈の正体で、比仲漁尾という人物だったのか。
わかばは囂々と鳴り響く水音と、波そのものに呑まれないよう、必死で今日耳にした言葉の数々を思い返した。
巧く言葉にはならないが、このまま濁流に呑まれ、再び流されるまま逃げ出すのが、恐ろしかったからだ。
考えろ。考えろ。考えろ。
織部わかばはどうしたい?
わからない。
それが分かっているならば最初から迷いなどなかった。逃げるようにこのS-O-Wに来ることもなかった。
このまま時が過ぎて水が捌けたら、またどこかへ逃げ出すのか。それとも別の道を探すのか。何分、何時間とも判別つかないあいだ、わかばは考え続けた。わかばはすがるように、隣で眠る女の両肩を抱ええる。穏やかな寝息と確かな鼓動を間近にして、わかばは彼女の言葉を再び思い起こした。
――逃避と逃亡は明確に違う。
――逃げ切るためには、向き合わなければならない。
――過去の自分の全てに。
飛沫を上げて水かさは増し、だんだんと波は荒く渦巻き、通気孔の入り口すらも飲みこまんとしている。やがて最後の照明が消えた。あたり一帯が完全な闇に包まれ、まぶたを開いているのか閉じているのかさえ、解らなくなる。
あの風切り声はまだ止まない。
◇――――◇――――◇
「朝比奈さん――」
届いている確証はない。訊いてもらえる保証もない。
それでもわかばは、声に出して語ることを止められなかった。
「私には、叔父がいました――どこか、あなたに似ています」
懸命に言葉を選ぶ。必要以上に自分を傷つけないように。
「私は七年前、叔父に襲われました。 その直後、叔父は自殺しました」
返る声はない。波以外の音もない。
眼を閉じる。涙がこぼれる。
「私は、生まれてからずっと、街の大人たちみんなに育てられました。 身寄りは教会で、タイピストとして働く叔父だけでした。 ゴシップが好きで、物知りで、とても、優しい人でした――そしてたぶん、優しすぎたんです――」
「叔父がこの都市に出られなかったのは、憧れ以上に恐れ勝ったからなんでしょう――快楽と欲望の道は、優しすぎた叔父には破滅の道だった。 でも、誰よりも憧れて――だからその皺寄せは、一番近くにいた、私のところに来たんです」
昂る自分の脈動を、崩れ始める自分の均衡を、言葉に起こして繋ぎとめる。自らの一言一言に掘り返される傷と痛みが、まるで途方もなく懐かしく感じられた。
「両親は、知りません――かつて母が、このS-O-Wに行って、やがて赤ん坊だった私だけが返ってきました――経緯は誰にも解りません。 聞こうとさえ思いもしなかった――ひょっとしたら今、私は母を恨んでいるかもしれない」
「叔父からは――いろんなことを、たくさん教えてもらいました。 端末の使い方も、タイピングのコツも、オルガンでプログラミングすることの面白さも」
わかばは深く呼吸器を吸った。
「でもそんな知識は、街じゃなんの役にも立つはずがない――だから日に日に、叔父は孤独になってゆきました。 だからある日訊いたんです、どうしてそんなに識っているのか――それが、叔父の琴線に触れてしまった――私は、私は」
叔父の手で犯されました。
「その後、彼は自ら首を吊りました。 私やシスターに、弁明も、釈明も、言い訳もせず、叔父はたった独りで逝ってしまいました。 その彼の遺品は、ほとんど母のモノでした――」
今思えば、まるで、見せつけるようだった。
今一度、わかばは涙を呑んだ。
「私は、忘れたい一心で――必死に普通の女の子を演じた。必死で本心を隠して、不完全な役回りを演じ、それが裏では気味悪がれても、薄っぺらい思いやりに疲れても――いつしか、自分でも厭になるぐらい、私は――」
善意で差しのべられた手を無言で振り払い、宙ぶらりんなまま猿芝居だけ延々と続けて、自分から世界を拒絶した。絵空事の異世界に恋い焦がれて、そこで必要とされる自分を夢想していた。
わかばは、あの日から心の奥底に埋めた思いを、はじめて声に出した。
「私も――私だって、逃げたかった――忘れていたかった」
朝比奈は逃げ出した。わかばも逃げて来た。叔父は死に逃げた。
みんな逃避者だ。生まれ育った環境へ、適応するための努力を中途半端に投げ出して、逆恨みで都市に生き方を求めた。何がしたいか、どうなりたいかもハッキリさせないまま、ただ、逃げてきた。
だから負けた。逃げ出した過去と、逃げ出した自分に。
「朝比奈さん、あなたの気持ちもわかります」
わかばは、はじめて彼を認めた。
「叔父も、朝比奈さんも、そして私も、タマネギの化け物なんです。いくら剥いても本心なんか出てきやしない、ポーズだけで凝り固まった空っぽの人形なんです」
手にした呼吸器を外し、深く息を吸った。目眩も頭痛も吐き気もしない。空調が再び標準化されたことを確認すると、そっとLARKの手に呼吸器を握らせた。
「私たちは、自分の都合で今まで見てきた世界を捻じ曲げて、勝手に納得しています。今の私にも、あなたをとやかく言う資格なんてないのかもしれない――でも」
わかばは、一度だけふり向いた。
「臆病者の私たちには、臆病者なりの答えが必要なんです」
わかばの内に、淀みない意思が芽生えた。
「逃げ切ってください、私と」
それが、現実から逃げ出した、私たちの責任です。
◇――――◇――――◇
少女はそう言って立ち上がると、水音の途絶えた暗闇を見据えた。
濁流の音はいつしか消え、水の滴る音だけが各所で反響している。
◇――――◇――――◇
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