【13 贈与】

 体が熱い。滝のように流れた汗の量に、今頃になって気がついた。

 焦りからの解放で、どっと息を吐いたときには、すでにわかばの心身は魔女の手中に収まっている。楽にしていいと言われるまで、わかばはソファの背もたれの存在をすっかり忘れていた。


 わかばが汗を拭うのもつかの間、さてと魔女は切り出す。

「シィニョリータワカバ、まずは口頭試験よ。頑張って答えて頂戴」


 慌ててわかばは背を起こし、再び前のめりの姿勢で魔女の弁に耳を傾けた。

 ここからが本番だ。

「なぜ今日S-O-Wが、世界中からここまで大量の移住者たちを呼び込んだのか、説明できるかしら?」

 再び沈黙が流れた。


 どう答えればいいのか、まるで見当がつかない。意気込んでかぶりつきの姿勢になったのが、自分でもやや滑稽に思えた。

 ややあってマルボロはあてずっぽうでも構わないわと、軽く一言付け加えた。

「そんなこと、言われても――」


 容易なことではない。

 説明しきるには高い専門性が要る。

 再びソファに背を預けると、わかばは心の平静を保つため、飲み残しのエスプレッソを一気に嚥下する。酷く苦い深呼吸。わかばは思いつく限りの答えを口にした。


「地方からの都市移住者は、家督や遺産の相続が困難な末子、何らかの理由で生産手段を保持できなくなった方、様々な理由から信用値の底値を割ってしまった方など、居場所のない人たちです」


 マルボロは、目を細めて薄く口元に微笑みを浮かべた。

 続けて、と無言で応じているように思える。わかばは手応えを感じた。続けざま思いつく限りの適当だと思う説明を記憶から呼び起こし、ほぼ原文そのまま吐き出コピペした。


「地方社会は、今や世界全土で膠着化――専門的な言い方をするなら、構造がしつつあります。 既得利権が絡み合ってできた構造システムは強固で、変革は絶望的です。 また、副次産業等を軌道に乗せるような挑戦者が、軒並み起業してS-O-Wのような巨大都市に進出した以上、地方はこの後緩やかに衰退して行くだけでしょう。 このような方たちがS-O-Wのような巨大都市に出ることは、生存戦略として当然――」


 マルボロは両耳に手を当て、もう勘弁と言った素振りで不快そうに嗚咽を漏らした。訊ねてきたのはそっちじゃないか、とわかばはふてくされる。それを見て一瞬小馬鹿にするかのように口角を上げると、マルボロは改めて至極真剣な眼差しで前屈みになる。


「では、なぜこの都市からのか、いいえ、そもそものか? これは説明できるかしら?」


 今度は、本当に何も答えられなかった。


 難解すぎる。


 口ぶりと論旨から考えて、旧行政の隔離システムを指しているのではないのだろう。〝逃げこと〟ではなく、〝逃げこと〟について。質問の仕方も謎かけめいてもはや問答か、言語ゲームだ。無限に言い淀むわかばへ、マルボロは目を光らせながら得意げに模範解答を口にする。





 何一つ言ってる意味が解らなかった。

「まあいいわ、おいでなさい」

 意味深に微笑むマルボロに言われるがまま、わかばは奥の電算室に導かれた。

 間取りは広いが、空間は狭い。

 リビングとは打って変わり、徹底的に整頓された電算室は、物珍しい様々な拡張機器機で部屋全体が隙間なく埋め尽くされている。間取りは広いが空間は狭い。白を基調としたわずかな家具も、ともすれば無機質な感想をわかばに与えた。空虚にすら思えた。まるで、私生活の一切を切り捨てていたシスターの自室のようだ。


 その奥に鎮座する、部屋半分を埋め尽くす電機演算オルガン。上京して二週間。幾度の試練を乗り越え、念願かなってオルガンの前に立ったというのに、わかばはその瞬間をほぼ無感動に迎えてしまった。教会のモノと比べれば少々小ぶりだが、増設された拡張機器の量を鑑みれば、個人で運用するには十分なスペックだろう。


 マルボロがゆっくりとオルガンのメインデッキに座った。

「シィニョリータ、アナタは〝無償の愛〟を信じて?」

 わかばは、ほぼ何も考えぬまま頭を縦に振った。


「そう、どんな行為にも見返りはある。誰だって知ってることよね」

 後半へ口出しすることは、おおよそ野暮なのだろう。マルボロはオルガンの拡張機器を調律しつつ答弁を続け、わかばはそれを無言で聞き続けた。


「完全なる無償が否定されるとなれば、全ての行為には相応する見返りが用意していなければならない。これがギブ&テイクの基本的な理念よ。そうなると、行為に対しての返礼は必ず執行されないといけないわ。そうでなければ、この世の全ての契約が成立しない――ちょっとここまでの流れ、大丈夫かしら?」


 調律の最中、演説が始まった。長丁場になりそうな気配がした。わかばは短く、ええとだけ応えるとマルボロはわずかにスィと呟き、また朗々と続ける。


「たとえば、ここで片方が課された額よりも余分に、しかも無償を宣言して返礼を行ったとしましょう。すると返された側は『儲かった』と同時にこう思うでしょう。『しまった、余分に頂戴してしまった』そして『押し付けがましい態度を取られる前に何かでチャラにしなければ』とね。するとこの心理的な負い目を基にして、ギブ&テイク、債権者と債務者の関係が逆転するの」


 わかばはしばし目をつぶり、少し考えてからマルボロに訊ねる。

「〝お歳暮〟や〝お中元〟ってわかりますか?」

 あるいはチョコレートのオマケ、と答えるべきだったろうか。

 そんな杞憂もつかの間、マルボロはわずかに振り返りケラケラと笑い出した。

「ええ。よく知ってるわ。時期が来るたび、マイゼンのヤツが頭抱えてたもの」


 そう言っては満足そうにうなずき、マルボロは正確かつ迅速な指捌きで複数のサブタイプを捌く。微かなうなり声と共に、室温も上がる。ブラウン管モニターと壁面スクリーン、ホログラム瓶の擬似構造体が、マルボロの演奏に合わせて目まぐるしく踊り狂う。

 これが本物のオルガニスト、と内心話もそっちのけで演算室の幻想的風景に見とれながらも、わかばは答えた。


「私の叔父も、かなり悩む方でした――というか、年々グレードアップしてて、一時期街中で問題になってたんです。 自治会が金額制限も指定したんですけど、今度は限度額での選び方だの、贈る時期だのでああだこうだと、いらないことでマウント取り合うようになって――」


 そう付け足すと、マルボロは目を細めてさらに問いただす。

「なぜそうなったんだと思う?」

 わかばは黙す。ファンクションペダルを踏みつつ、マルボロは答えた。


「その本質がお気持ち、つまり貨幣に兌換不能な行為だからよ」


 貨幣、兌換――脳裏で何かの糸が絡まり、繋がりはじめた。

「感情が大きければそれはより深刻化するわ。 数値化できない、即ち返済行為は、金額の分からない贈り物。 ご存じかしら、ギフトってドイツ語だとって意味なのよ。 だから、『相手の押し付けた分よりも、多く押し付け返したほうがまだ安全だ』と考えるのはごく自然な発想なのよ」

 あ、とわかばは息を呑んだ。



 経済学のカリキュラムで聞きかじった。原始的なモノ交換から貨幣交換が生まれるには、共通する価値基準を保たない共同体同士が端境で接触した際に初めて必要になったのだと。

 わかばは、旅立ちのあの日を思い出す。

 わずかばかりの言葉を交わすと、役員は麻袋に入った金貨を酋長に渡してた。あの取引には、確かに貨幣が使われた。クリスマスか、五月祭、復活祭でもない限り、めったにお目にかかれないが、になってはじめて必要とされたのだ。


「別にお返しは物品でなくていい。元々お気持ちで付与した余剰なら、お気持ちで返済してもいい。ただしこれはお金、つまり共通する物差しを欠いた、非等価交換。だから双方で適正価格が見えないまま額が無尽蔵に増え続けるの――愛し合ってる二人が、ようにね」

 時折マルボロは席からふり向いて、愉しそうに笑いかける。


 わかばは、できるだけ応えるようにしていたが、内心恐ろしかった。

「だから、離婚のときは裁判で慰謝料を請求するんですね」

 至極嬉しそうに、マルボロは嬌声を漏らした。


「そう、愛の原価が割れてしまえば恋の魔法は消えてしまう――お金が動くときは、常にことが終わった後の祭――もうそのときに競りは上がりを迎えてるわ。だからね、継続可能な贈与交換は、まだ執行者同士で価値の相違が埋まりきっていない、言わば境界線上での取引なのよ」


 境界線上での取引。

 街とノマデス。定住民と遊業民。価値観に相違のある二つの共同体は、おたがいの敷地に余剰な毒を持ち込まぬため、おたがいが忌み嫌うはずの偶像崇拝の切れ端、金貨という形で残しておいたのだ。価値体系の異なる集団が、同じ場で平等な取引を行うには、双方と同じだけ離れている媒介物が必要になる。

 対してS-O-Wではあらゆる人が異なった価値基準を持てる。言語や文化が異なれば、それに合わせて常識も変容する。あらゆる法が、その論拠を保証するコミュニティと供に、大小様々なモザイク状になって散らばり敷き詰められている。


 この都市では、ありとあらゆる場所が境界なのだ。


「これら贈与の一撃がヒートアップすれば、正確な額が分からないまま債務――もはやが貯まり続ける。 バカ正直に返済を続ければ超特急で赤字コースよ。 けれど、下手なところで競売を切り上げて金額が確定した瞬間、貯まった負債を一辺に受けることになりかねない。 だから、売り時が来るまで、この茶番劇は延々と続けられるの」


 止むことの知らぬマルボロの饒舌に若干退きながらも、勇気を出して返した。

「まるで、導火線に火の点いたダイナマイトを押しつけ合っているみたいですね」

「座布団一枚」

 なんでそんなことも知っているんだ、と思った。


「だからね、わかばちゃん。この都市に存在する無法を取り締まる最大の法は、無限に続く贈与交換、余剰に含まれる毒と、脅迫めいた返礼――この貸し付けと返済の繰り返しが、目に見えぬ法――即ち終わらない愛と欲望の正体よ」


 魔女はそう言って作業を一旦終える。メインデッキの操作が途絶えて間もなく、正面のブラウン管にノイズが掛かる。膨らみを帯びたメインモニターに連動して、各サブタイプの画面にもエコーバックやゴーストが頻出し始めた。


「毒をもって毒を制す。 尺には尺を。 おたがいの法がどのように機能するのか不理解まま繰り返される交換ゲームの果てに、人は支配し支配される。 そしてね、わかばちゃん。 基本的にこのゲームにはのよ――」


 何故だと思う? そう言いたげな偽の碧眼がわかばを捉えたとき、密かに悪寒が全身をよぎった。


 わかばは、内心論旨に反証や反論を探りながらも、あの碧い視線に逆らうことが出来ず、まるで予定調和のような模範解答を口にした。


「賭けにならないからですか?」

 至極嬉しそうに、マルボロは目を弓なりにゆがませた。

「正解よ、やだアナタ結構地頭は回るじゃ無い」

うれしさ半分、もどかしさ半分。わかばは複雑な心境に戸惑っていた。


 ややあって、理不尽ですねとわかばは切り出した。

「だって、親以外の参加者は不利じゃ無いですか、このゲーム」

「そうかしら? この場合、債権者だって気が気じゃないわよ」  

 マルボロはやや怪訝そうな表情を添えて、わかばの疑問へ反論した。

「目には目、歯には歯、一撃には一撃を――返済能力を超えた請求は、相手の人生を取り潰すことだってある。 そうなると今度は別の債権者とモメる原因にだってなる。膨れあがった負債はどんな行為で支払わされるかわかんない以上、最悪自分自身も道連れになるわ」

 マルボロの口調はやや厳しめに聞こえた。

「ご心配なさらずとも、交換の持続可能性を守らないで搾取し続けることも、この都市では御法度でおいそれとできないのよ。 それに、報復は言わば信頼の裏返しよ。 それがなら、、という判断になるの。 その点においてのみ、ゲーム参加者は皆親も含めて公平な立場にいるわ」


 マルボロは身をかがめ、今一度わかばと同じ視線で語りかけた

「だからね、わかばちゃん。負債者と債務者は常に、おたがい監視できる状況に置かれなきゃいけないのよ――無策無能の巣窟だった旧市政の置き土産で、追跡システムだけが重宝されているのは防犯のためじゃない。それは」

 逃げられない原因が、わかばにも見え始めた。

「みんなでこの交換こゲームを、死ぬまで永遠に続けるため、ですか?」

 そうSi、とマルボロは短くうなずいた。

 

 わかばは大きく息を吐き、少し幻滅した。

 マルボロの論説は、逆説的にわかばの憧れ続けた自由な世界という概念を真っ向から否定して見せた。何者からも、干渉も阻害も受けない完全な自由意志、などという概念は、この論者は鼻で笑うことだろう。マルボロはマルボロ、他人の言うことだと思えばそれまでなのだが、否定できる論考がわかばには足りない。


「息苦しいわよね、S-O-Wも」

 表情から、内心を読まれたのだろうか。魔女はわかばの思っていることを容易に言い当て、おもむろにメインデッキを離れると、悠然とわかばの前に立った。


「でもそんな状況を、踏み倒す手段が一つだけ残されてるわ――」

 え、と固唾を呑んで身構えるわかばの肩を、マルボロが軽く叩く。





 とても甘ったるい声色で、魔女はわかばに耳打ちした。

 気がつくとマルボロの指先には、いつの間にかわかばのIDカードと移住許可証が握られている。シスターからもらった藤色のカーディガンの、隠しポケットに収めていたモノだ。

 それは、と息を呑むわかばが精いっぱい手を伸ばしたが、魔女の長い指は少女の手を掻い潜り、オルガンに増設されたスロットに二枚のカードを差し込んだ。


「アタシね、裏で【逃がし屋】をやってるの。このS-O-Wで最も忌み嫌われる禁職、よ」

 そう言ってマルボロは指を弾いて、わかばのIDに魔法を仕掛けた。合図とともに、白い電算室の各機器が一斉に歓声を上げる。再びメインデッキに座ったマルボロの指揮に併せて、スクリーンはひっきりなしに明滅する。


 身元保証になる大手のカード会社、ワイヤードサポート、行政資格認定署のサーバーに潜り込み、強固な防壁をあっという間にこじ開け、パスワードをかすめ取る。矢継ぎ早にアカウントを新設しては次へ次へと移る。わかばを意味する数列に、過剰な符号と数値が付与される。

【公認会計士資格】 【司法書士資格】

【税理士資格】 【秘書検定】 【簿記】 

【管理栄養士資格】 【住宅衛生管理士資格】

 忙しない演奏の最中でも、余裕の相を崩さないマルボロが、一度だけふり向く。


「センスを鍛えるにはね、実践あるのみよ。 流れを読み解くには、最も激しい現場をリアルに思い浮かべられる経験と想像力が必須なの。 そこに来てアナタ、ラッキーよ。 まさにうってつけのアルバイトがあるから、よかったら挑戦なさい」


 織部わかばという空欄に、当人には身に覚えのない肩書きが次々と付与される。ポテンシャル、プロフィール、パーソナリティ、磁気シールに追記されてゆくそれは、当人の実像から限りなく離れた完全な別人である。空行だった技能欄は、あれよあれよと改竄され、置換され、誉れも高い数多の装飾を施された。

 ただ一つ、オルガニストの資格を除いて。


「こんな端末依存症のご時世、肩書きや資格なんてチャチなモノ、いつでもいくらでも作れるわ――出来上がり待つ必要なんて、本当は無いのよ」

 そう言い捨てると、魔女はわかばに“織部わかば”を手渡した。怖い思いを散々重ね、心身ともにボロボロになりかけながら掴み取ったご褒美は、驚くほどあっけなく、無感動に贈与された。


 わかばは恐怖した。

 

 

 さてシィニョリータ、と魔女は告げる。


「今夜アナタに、アタシのを紹介するわ――そこで逃がし屋の手伝いをやって頂戴。 魑魅魍魎、有象無象が跋扈するこの都市で、一体誰に何が贈与され、何を返礼しなければならないか、その身で肌で、しっかり感じてきなさい――」

 空っぽになった心の隙間にどす黒い感情がなだれ込む。

「もし今夜中に、無事に帰ってこれたなら――」

 良識という薄氷は砕かれ、不安と焦りが暴れ回る。


「そのカードにオルガニストの法人資格も付与してあげるわ。 約束よ」


 わかばはもう、魔女に逆らえなくなっていた。

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