【05 騒動】
◇――――◇――――◇
織部わかばは、今年で二十一になる。
まだ肌の張りには自信があったが、体格は幼い。肉付きときたら最悪で、毎朝鏡の前に立つたびに悔しくなるぐらい、胸もお尻も貧相だ。線も細く、食も細く、身長も周囲より頭一つ低く、つまりはS-O-Wの平均から換算すると二つ分も低い。
その華奢な体に手を加えようものなら音を立てて壊れるだろう。その震える声はさぞ悲壮に泣き叫ぶだろう。凍り付いた表情も相まって、演出上、今のわかばは人質に最適の役者だった。
「悪いね、今日はゲストがいたんだ」
ドレッド男は、お約束通りダボついた衣服の下に拳銃を隠していた。お約束通り狙った先には晴三郎が立つ。辛酸を嘗めた表情、額には汗。二階の乗客たちもいつの間にか一階に降り、物陰に身を潜めながら状況を覗っている。
あまりの急展開。あまりの精神的負荷。
わかばは拘束を振りほどくことも、大声で泣き叫ぶこともできない。心臓は今にも爆発しそうなぐらい鳴り響く。
ドレッド男が再び吠える。前より言動は大胆で挑発的だ。
「いいか? おさるのジョージコイツの脳味噌見たくなかったら――当然、得物にもチガには触れちゃいけねぇよなぁ?」
お約束の台詞、お約束の行動。
そして晴三郎もお約束の展開にならい、銃口を下げた。
「そう! それでいいんだ、アンタ自分に誇りもちな。 人質を傷つけちゃアンタの責任になる、そうさアンタは正しいことをしたんだ、ジャスティス・ヒーローさ! 喜びなよ!」
ドレッド男の長い腕がわかばを羽交い締めにする。ダボ付いた服の異臭、大粒の汗が浮かぶ肌。青年の手は小刻みに震えていた。凶事を真横に控えた運転手は、手を後頭部で組んでアベマリアの祈りを唱えながら突っ伏している。
「いや本当、実にいいタイミング! いいアドリブ! なに君。 ボクのファン?」
ドレッド男の大声がわかばの耳元で炸裂する。日ごろの不摂生を物語る口臭、消化不全の胃液の臭い、頬に伝わる拳銃の冷たい感触。震え上がるわかばのリアクションにドレッド漢は満足すると、再び青年を煽る。
「ホラホラ、正義のおまわりさん、次に何やるかはわかってんだろ、まだ両手そんなものに触れてちゃあいけねえよ! なあ聞いてんの?」
青年は目を伏せ、手にした拳銃を床に投げ捨てた。
「ごめんなさい、晴三郎さん」
青年がドレッド男を睨みつける。わかばは申し訳なさで胸がいっぱいになる。
ドレッド男は口角に泡吹かせ、愉しそうに笑い出した。
「君たち、お知り合いだったの? どこまでも都合がいいね、お嬢ちゃん!」
男の声は次第に甲高く、腕は震え、挙動はおぼつかなくなる。力任せにわかばの藤色カーディガンのボタンを引き千切ると、その下の貧相な鎖骨を長い指先で撫でた。乗客の視線がわかばたちに集中する。
死にそうなぐらい心臓が高鳴る。耳元ではドレッド男はささやきかける。
「本当、いいアドリブだったぜ、おかげでこのサル野郎を出し抜けた――演技派だね、かわいいね。 そうだ、ボクのトモダチに紹介してあげよう、稼ぎ所は紹介してやるから安心しなよ」
ドレッド男は青年を嘲笑い、わかばの肉体を弄んだ。周囲に挑発するようでいて、目ざとく周囲に気をまわしているのが視線でわかった。
「おら運転手! 何ボサッとしてんだよ! ズラかるぞ! ギア入れろ!」
ドレッド男は運転席に目配せして発車を促したが、運転手も震え上がってまともに操作ができない。苛ついてドレッド男は銃口を運転席側に向けてにじり寄る。
わかばは一瞬の隙を見計らい、勇気を振り絞って精いっぱい手足をばたつかせてもがくが、故意か偶然か、同時に男の骨ばった掌がわかばの薄い薄い胸を撫でた。
悲鳴を上げたつもりだが、声は出なかった。
青年が視線をそらす。ドレッド男がさらに吠える。
「いいか、ここいらは衛生が悪いからな! なんかしたら俺、この子になんかしちゃうかもしンないぜ? そん時ァ誰の責任になるのかなァ、えええ? 三下のおまわりクンよお!」
ドレッド男は捲し立て、わかばの胸をもみくちゃに撫でまわした。血の気が引いて行くのがわかる。本当は大声で叫びたかったが、すでに恐怖で身動き一つとれない。
嫌な思い出が、脳裏をよぎる。
だがそんなとき、予期せぬ方向から発せられた声が、ドレッド男を釘付けにした。
「なら先にお前が降りろよ、クソ三下
声のする方向へふり向いた瞬間、首から上だけが反転し、ドレッド男はそのまま体勢を大きく崩す。そのまま拘束から解放されたわかばが座席に倒れ込むと、動悸が一旦落ち着きを取り戻し、肉体の自由も復活した。次いですぐさま強引に腕を引かれ、わかばはそのまま乱暴に青年に引き渡された。
「車内見渡せ、お前が一番不衛生だクソ三下」
晴三郎に抱き留められながら、車内前方へ視線をふり向く。フラフラと立ち上がるドレッド男の前に仁王立ちで対峙する者が目に映った。
最前席に座っていた、あの褐色肌の女性客だ。
「血ィ拭けクソ三下、公共の迷惑だ、垂れるなら家帰ってからにしろクソ三下。 どの道乗車履歴から素性は割れる、サルだろうがゴリラだろうが原人だろうがポリ公に見つかった段階で負けてんだよ、お前。 わかったら潔く諦めろクソ三下」
息もつかないような
「クソが好きだな、そうゆう趣味か? だったらいい知り合いがいるぜ」
やっとのことで立ち直したドレッド男へ女性客は声色一つ変えずに応えた。
「てめぇの口に入るモンよりは健康的だクソ三下。口のケツん所に何か白いモン付いてるけど、そういう趣味かクソ三下?」
だったらいい知り合いがいるぜ、と女性客が付け足したところで、激昂したドレッド男は無言で銃を構える。
「やってみろよ、ド三下ァ!」
蛮声が車内に響き渡った。
彼女は何一つ臆することなく正面から突っ込んだ。誰もが大きく声を呑み、ドレッド男が何か喚いて引き金に指を掛けた。わかばは目を見開き息を呑む。
乾いた銃声が轟く。
だが、どういうわけか弾丸は明後日の方角を射抜き、手すりのチガやつり革にかすり、そのままあらぬ方向へ飛び抜けて側面の窓を割った。
女性客は、降りかかるガラス片を払いのけ、そのまま真っ直ぐ突き進む。
「嘘だろ――」
ドレッド男が虚しく呟くあいだに、女性客は拳銃の目前まで迫る。敵が構え直すと同時に彼女は飛び上がり、バスの天井、扇風機のフレームに掴まった。そのまま体全体を器用に屈めて次弾を避け、腕力だけで宙に浮いたまま、叫んだ。
「トロいんだよ!!」
ドレッド男が両手で拳銃を握り、構え直す。女性客は身体全体を大きく捻り上げると、勢いを付けた左脚で男の鼻先を鋭く蹴りつけた。
掴まっていたフレームに再び体重を掛け、さらに一回転捩り直し、チョコレート色の長い脚が狭い車内で大旋回する。一瞬鈍い音がすると、ドレッド男は鼻から大量の血を流しながら白目を剥いた。
決まり手と共にマイルドの一言。
「
男が体勢を崩す。座席に倒れ込み、口角の泡が血と混ざりながら床に滴り落ちる。ひいひい言いながらドレッド男は立ち上がろうともがくが、自分の血に足を滑らせ、後頭部を手すりに強打しあえなくKO。
テンカウントを待たずして、ゲームは終わった。
「ケ、なんとも骨のない停まり木だったな」
女性客は左膝をさすりながらそう呟き、天井から外れかけたフレームから舞い降りた。ずどんと重い音がして、車内がわずかに揺れる。
ふり向きざま、彼女は明確にわかばを見て、怪訝そうに呼びかけた。
「よう、無事か小僧?」
大きな黒い瞳、汗ばんだ褐色の肌、厚い唇には笑みを浮かべて微笑む。屈託のないその仕草に、わかばの心臓がどきりと脈打つ。
見立ての歳はわかばと近そうだが、体格は大きく、胸からウエスト、腰にかけてのラインはずっと女性らしい。ドレッド男の返り血に染まったに左膝は、ヒバリが枝から飛び立つ様が入れ墨で施されているが、目を凝らしてみるとその枝は痛々しい傷跡だった。
◇――――◇――――◇
「オイ警官。 手錠だ、手錠持ってるだろ。 現行犯だ」
「先に乗客の皆さんの、身の安全の確保を!」
「あーあ、もう大騒ぎになってんじゃん、参ったな」
バスの外では現地住民でちょっとした人だかりができていた。運転手は恐怖で震え上がり運転席から離れることすらできず、事態の収拾は彼女と晴三郎に委ねられた。その青年警官が至極ばつの悪そうな顔で、一応の謝辞を述べた。
「協力には感謝します。本官がいながら――不甲斐ない」
青年は短く会釈してそう告げた。女性客は、瞳に一瞬だけ冷たい輝きを灯した後、無言で後ろでまとめた長い縮れ髪をかき分けた。ドレッド男を仕留めた長く力強い脚、ショートパンツに収められた厚みのある腰、煤けた藍色の上着は胸元が大きく開き、そこから赤いのシャツが山二つ分突き出している。
背筋を伸ばすと、身長は青年刑事よりも若干高い。二重三重に恐縮する晴三郎を再び鋭い目つきで一瞥して、厳しく諌言の弁を語った。
「マイゼンとこの新人か?」
単語に青年が反応を見せ、僅かに返答が濁る。
「――ええ、ただ、さっきのはちょっと危なかったんじゃ」
「いや、焦点ブレブレだったからさ。 四肢の筋肉も弛緩してたし、ありゃ顎か鼻を二、三発ぶん殴れは行けるなって――流石に乗客に弾中ったら、ってのは考えもしたけど、アタシ別に民警じゃねえからな。 制圧を優先させてもらったよ」
熱血青年の唖然とした顔を一瞥すると、女性客は皮肉めいた笑顔を浮かべてた。驚く青年の手を取り、いつの間にくすねたのかドレッド男の拳銃を握らせる。
「中身見てみ」
晴三郎が言われるがままに拳銃をいじりまわすと、すぐさま凍り付いた。
「ABS製の
「末端の小売り商相手じゃよくある話だ。大昔、頭数揃えるために民警から委託生産された品と、動作確認用に安価で作られてる模造弾だ。安値で仲南会に流れてた名残かね――この組み合わせじゃ致死性低いからストッピングパワーには劣るな」
「しかもこれ、耐熱性ゼロの立体印刷ですか? 危ないなぁ」
勝ち誇ったように女性客が鼻で笑う。
「だからさ、確実にアンタを黙らせるために、野郎はその小僧を取ったのさ。 ライセンスも取ってない即席パーツ、しかも内職同然で組み立てた
無言で佇む晴三郎へ、厳しい言葉は続く。
「この程度も見抜けないとなると病院近いぜ、ちゃんと保険入れてもらってる?」
「勉強させてもらいます」
「危険手当がっぽり頂戴しな」
意地悪そうに嘯く女性客は、青年よりも圧倒的に頼りになりそうだった。
ふと、わかばと目が合った瞬間、女性客がああと呟き天を仰ぐ。容疑者に殺到する乗客たちをには目もくれず大股でこちらに近寄ると、力いっぱいわかばをハグした。
本日二度目の羽交い締め。今度は気恥ずかしさで身動きが取れない。手足を振るわせてパニックに陥るわかばに、女性客は笑いながら優しく言葉をかけた。
「悪い悪い、女の子だったか――どうも日系の若い子は見分けがつかなくってさ」
芳香剤、消毒薬、抗傷スプレーの香り。漂う汗ばんだ香り。
濃いチョコレート色の褐色肌。
いたるところに、治りかけの生傷があるのがわかった。
黒目がちな瞳はわかばを射抜き、不意にやわらかく微笑む。
「ま、こういう日もある、あまり気に病むな」
わかばの貧相ななで肩を叩き、彼女はその場を後にした。
対して青年は犯人を手錠にかけ、手近な座席に固定した後、再三好く通る声で現状保護を訴えかける。だが乗客の大半は頭に血が上った年配者で、若造の忠告など誰も耳も貸さない。フラッシュを焚いて炊犯人の顔を激写し、身動きのとれないのをいいことに殴り蹴り八つ当たり。果ては無関係であろう運転手に罵声を浴びせる始末。好く通る悲痛な叫びがバスの中に響き渡る。
「皆さん、これじゃ業務執行妨害ですよ! 落ち着いて!」
わかばは喧騒をバスの端から眺めながら、誰一人としてまだ市民の義務を果たしていないことに気がついた。チガに自分の端末を接続したようと瞬間、野次馬の人だかりを前に立ち尽くしていた運転手がこちらを向く。
「やめてくれぇ!」
運転手のつぶらな瞳が、みるみるうちに恐怖の色に染まっていく。
「へ?」
◇――――◇――――◇
わかばの素っ頓狂な呟きと共に、手元でチガが火花を上げる。
破裂音と振動が、バスの真下から響いた。
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