【16 再開】

声も出せぬまま、わかばは硬直した。対面する彼女は、なんだまた会ったな、程度にラフで意外そうな表情を見せた。


「ちょっとしばらくいいかい?」

 一言断ったあと、手にした特大カップをテーブルに置く。次いでスポーツバッグを椅子の下に放り出す。わかばの手荷物よりも大きい。衝撃でテーブルは揺れ、カップの上に山と積まれたホイップクリームの一部が垂れ落ちる。


 まあ今朝は災難だったな、と彼女は気さくに話かけてきた。

「何が災難って、あの一番めんどくさい民警サルに顔覚えられちまったことだぜ。 連中、あれで粘着質でさ、顔覚えられないようにしろよ?」

 屈託のない笑みを交えて警戒心を取り払いながら、彼女はわずかに宙を眺めた。次に後ろで束ねた縮れ髪をいじりつつ、どうしたものかと思案する素振りを見せた。


 考えなきゃいけないのはこっちの方だ。わかばは混乱の一歩手前で、無理矢理に平静を取り持っていた。


「――自慢じゃないがね」

 そう呟くと彼女は不意に、わかばの手元へ何かが放り投げた。紙ナプキンで包まれた小さなソレは、どうやら非常に硬質なものらしい。

「アタシも結構出入りしてた。 おかげで勉強したよ、色々とね」

 わかばがそれを受け取ると、彼女はそのまま背を伸ばし、両手を後頭部で組んで得意げに言い放った。

「貰っとけ、だ」


 意味深めいて彼女は微笑む。恐らく、わかばの予想は中っている。

 硬貨チップ

 贈与の連鎖、相違する価値観の齟齬から生まれる軋轢を解消し、均衡を取り戻すための魔法の道具トークン

 数枚だが、しっかりと重い。

 実際に触れるのは初めてだが、驚きや興味よりも畏怖の感情が際立つ。わかばは迷わず、包みごと異教の神をテーブルの中央に置いて返した。


「ごめんなさい――私、こういうのよくわからないんです」

 そのぶっきらぼうな返答に、彼女は唖然とした。

「――よくわからないってわかってるなら、なおのこと貰っておけ」


「知らない人からよくわからないモノを受け取っちゃいけないって、習いました」

「何の宗教の何の宗派だよ」

「日曜日にはお歌を歌うんです」

 バカか、と短く呟いて、彼女はあからさまに嫌そうな顔を見せる。


「あのな――エゴを通すときの礼儀ってのは、確かにムカつくことも多い。 だがそれなりに摩擦係数が減る、無駄な諍いを回避できるんだ。 なによりタダじゃない、わかるか? わずかながらでもコッチは対価を払っている。 それを拒むってことは、状況によっちゃ失礼な話になる。 いいか、たとえよくわからなくても、こういうモノは素直に受け取っといた方がいい」

 声のトーンを少し下げ、強請りたいっていうなら別だがな、と最後に付け足す。それらの所作に、わかばはある種の類似点を見いだした。


 目の表情、身振り手振り。そして丁寧だが、要点をぼかした説明。感情の起伏が大きい様子を見せて相手の不安を煽り、自らの望む方向へ相手の心理状態を傾ける。

「どこの誰だか知らないが、事情通じゃねえってことは一目見りゃわかる――危ない橋を渡る前ってのは、必ずサインがあるんだ。その中でもこれは親切な類だ」

 諭すようにそう告げた。推論は確信になった。


 彼女もまた、魔女の手の者。

 目に見えぬ法の中を飛び交う、【億万長者の使い】の一人。

 ならばもう同じ手は食わない。わかばは膝の上で汗まみれの握り拳を作った。


「ご心配にありがとうございます、でも、私は――」


 マルボロとの舌戦でわずかに学んだこと。対等を装う相手ならば、こちらの発言中は黙って耳を傾けなければならない。

 できるだけ考える時間を稼ぐべく、饒舌を心掛ける。

「――私は今まで、そういった親切をまんべんなく浴びて、何も心配せず、何にも傷つかずに生きてきました――きっとこれも、そういった思いやりの一つだということは、なんとなくわかるんです。 そして断ることが失礼だということも、でも――」


 たぎる思いをそのまま口にした。

 魔法なんて使えない、呪文なんて知らない。

 まだマイゼンや、マルボロのように強かには生きられない。

 偽ることも装うこともできていないなら、あるがままをぶつけるしかない。

 わかばは可能な限り、使える言霊を総動員する。


「でも、これから先、どんな親切を受けようとも、それで自分が雁字搦めにされて身動きが取れなくなるぐらいなら――自分の気持ちで決めたことは、曲げずに最後まで貫きたい。胸を張って生きて行きたい――だから私は、今、ここに来ているんです」


 わかばの感情がこれ以上なく昂りだした矢先、相手は鋭い眼光を浴びせながら、ただ待てと制止する。

「いったい何の話だ? アタシはアンタのカウンセラーでもなければ、至極仲の好いお友達でもない。確かにどういう経緯でアンタが今ここに座っているのかは知らない。だが、会って早々、ほぼ赤の他人のはずのアタシに、なんで身の上話をひけらかそうとしてんだ?」


 赤の他人。

 そうだ、真っ黒な瞳で見つめてくる彼女にとって、わかばはまだ、ただ隣りあわせただけの他人なのだ。ならば示せばいい、合い言葉は直接習った。

 今こそ唱えろ。

 わかばは最後の殺し文句を彼女に言い放つ。


「私が――【使】でもですか?」

 黒い瞳の輝きが、一瞬で消えた。雨音が激しくなった。

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