24話 負けヒロインはいつも通り


『ごめん、トイレめっちゃ混んでるわー。もうちょっとかかりそう』

 

 兎和とわからのメールは、待たされすぎてそろそろ不安になる頃にようやく届いた。

 観覧車から飛び降りた兎和が、「ちょっと待ってて」とだけ言い残してトイレに直行してからかれこれ三十分になるだろうか。

 いくら数が少ない女性用トイレだからって、この時間にここまで混雑するはずもないが、仕方がない。今の兎和に僕から何かを言うことはできない。兎和の気持ちを待つしかない。だからこうして屋上テラスのベンチに座り、僕は兎和を待っている。

一人夜空を見上げながら。

一人観覧車のうねりを聞きながら。

一人風と語りながら。

一人風と戯れながら。

一人風に泳ぎながら。

……つーか、マジ風強いな、今日。

 寒いんですけど。どうにかなんないですかね、これ。

 いや、待つよ? そりゃ待つけどさ。ほんと風強いわー、今日。観覧車止まらなくてよかったよ。強風のせいだろうか、いつもはカップルで賑わう屋上テラスも今日は人影がまばらである。


「うう、寒い」

 ガタガタ震えながら、ベンチで背中を丸めていると、観覧車のライトアップが始まった。

夜空に鮮やかな光彩を放つ観覧車。その無人のゴンドラを眺めていると、どうしても、一人でゴンドラに乗る兎和の後ろ姿が浮かんでしまう。スマートフォンに口づけをする兎和の姿。僕に背を向けて座っていた兎和は、多分自分が見られていたこと気付いていないのだろう。

 兎和はいつもそうだ。お姉ちゃんぶった顔で僕を子供扱いして、肝心なことはいつも何も気づかない。

 僕がこんなに寒いことも、あの時の告白も。


 命懸けのプロポーズを笑い飛ばされた僕の心は完全に折れた。ボッキボキのバッキバキに折れまくり、サックサクの砂と化した。もうこれ以上折れる所のない砂。潤うことのない砂。


 あの時からだ。僕は女性が怖くなった。女性と接するのが怖くなった。クラスの女子と喋れなくなり、女性の出ているネットやテレビが見られなくなり、女性ボーカルの曲が聞けなくなった。一生恋なんてできないと思った。

だから、あの時の僕には想像すらできなかった。十年後、自分のスマートフォンの待受け画面が同級生の女子の写真になっているなんて。


 ――姫乃ひめの


 僕の掌で、恥ずかしそうにレモンティーのストローを咥えている。

 恨めしそうな目で僕を睨んでいる。写真が嫌いだという姫乃に何度も何度もお願いしてようやく許可が下りた貴重な一枚。カメラ目線で写っているのは多分これ一枚きりだ。絶対待受けにはするなと言われたけど、ごめん、してる。

 いや、するよ。絶対するに決まってるし、姫乃だって絶対されると思ってるはずだ。


乾ききった僕の心に温かい雨を降らしてくれた天使。種を植え、肥料を与え、風から守り、驚異的な早さで花を咲かせてくれた女神。

やっぱり僕は姫乃が好きだ。

神にだって誓えるほどに。

世界に向かって叫べるほどに。


ああ、寒い。風がどんどん強くなる。くそう、負けるもんか。

「でいでい―――あっ」

 寒気を吹き飛ばそうと上体を捩じったら、飛んでいったのは手に持っていたスマートフォン。それはもう見事に隣のベンチに座っていた人に直撃した。

「うわ、ごめんなさい!」

 すぐに謝りに走ったけれど、いきなり物を投げつけてくる非常識な輩に親切にしてくれる人はいない。僕のスマートフォンは無残にもブーツに蹴飛ばされ、


「お待たせ――んん?」


 ようやく戻って来た兎和の足元まで滑って行った。

「ほほー、なるほどなるほどー」

 僕のスマートフォンを拾い上げ、舐めるように待ち受け画面を眺める兎和。

「お、おう、兎和。遅かったな、それ返して」

「んー」

「あの、兎和、スマホ……」

「んー。んー」

 ……マズい。今の兎和にこの待受けを見られるのは、とてもいけないことのような気がするぞ。

「なるほどなるほどー」

 兎和は僕の顔とスマートフォンを交互に眺め、ぺしぺしと人差し指で画面を叩くと、

「べーだっ!」

 素早くカメラを起動させ、渾身のべー顔を写真に収めた。


「おい、何撮ってんだよ!」

「はい、これでおあいこね。うちに彼氏ができるまで絶対その写真消さんといて」

「うわっ、投げんなよ」

 投げ返された電話をおたおたとキャッチする。兎和をそんな僕を待たずにスタスタと歩き出した。

「あー、あー。お腹空いたー。なっちゃん何か買ってー。買い物付き合ったお礼に」

「嫌だよ。もうお茶奢っただろ。お前こそ待たせたお詫びに奢れよ、寒かったんだぞ」

「てゆーか、なんで外待ってんの? 中におりーや」

「お前が待ってろって言ったんだろ!」

「あ、肉まんや。あれ食べたーい」

「聞けよ、話を!」

 ぎゃーぎゃーと言い合いながら僕達は観覧車乗り場を、恋人達の聖地を後にする。

 これでいい。僕と兎和はこれでいいんだ。


 スマートフォンの画面一杯に収まった兎和の舌出し顔には、昼間にはなかったはずの念入りなアイメイクが施されていたけれど、そんなことには僕だって気付かなくていいはずだ。

 

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