9話 負けヒロインは足がつる


 ………抗議しようと思う。


 兎和とわに。正式に。

 兎和に悪意がないことはわかっている。あいつは嘘をつくような女じゃない。僕と姫乃ひめのの仲を応援すると言った以上、その言葉に二心はないだろうし、いい所で割り込んで来たのも本当にたまたまだったのだろう。

 そういった兎和の心根の部分を疑う気持ちは全くない。兎和には家族ぐるみで感謝しているのだ。一方的な家庭の事情による居候を本人は申し訳なく思っているようだが、我が家は兎和が来てくれて本当に助かっている。

 毎日の朝食や弁当はもちろんのこと、持ち前の明るさと明け透けさがもたらずポジティブな気分など、相生家の生活はもはや兎和抜きには成り立たないと言っていいほどだ。

 でもだからって、酷くない?

 三回だよ、三回? 三回割り込んで来たんだよ? 

 しかも盛り上がりの頂点で。正直に白状すると、僕はこの三回のどこかで………キスができると思っていた。

 いや、さすがにそれは無理か。あの鉄壁の恥かしがり屋に初日にそこまでの許容を求めるのは現実的じゃない。何より僕にその度胸がない。

 でもそれに準ずる何か! 生まれて初めて出来た恋人との初日を永遠に飾るにふさわしい特別な何かを僕は明確に期待していたのだ! 

 しかも、イケそうだったくない? 雰囲気的にさ。結構悪くなかったくない? それをあの野郎……。

 だからやっぱり文句言う。

 兎和にビシッと、気持ちの表明をする。二人を代表して。いいよな、言っても? うん、いい。僕彼氏だし。法的根拠は充分にある。よし、言おう。

てな感じで、午後一杯検討に検討を重ねた結果、僕は兎和にクレームを入れる事に決めた。

 て、なげーわ。考えるの。

 もう授業どころか掃除時間も終わっている。

 だめだな。やっぱり、今日の僕は兎和に気を遣いすぎている。昨日までだったら文句何て気になった瞬間にいくらでも言えていたのに。

 よくないぞ。こんな気遣いは兎和だって望んでいないに違いない。リセットだ。気持ちをリセットしなくては。

兎和は家族! 兎和は兄弟! 何にも気を遣う必要なんてないんだよ!

「そうだよな、ぽっぽ!」

「そうだぞ!」

「ありがとう!」

 さすがぽっぽ。質問も聞かずにここまで強い返事ができるなんてただ者じゃない。頼もしい掃除仲間と下駄箱で別れ、昇降口を出た。


 早朝、姫乃と二人で歩いた道を一人で逆戻って家に帰る。

部活に所属していない兎和は生徒会の用事がない日は大抵寄り道をせずに真っ直ぐ帰る。今なら家にいるはずだ。言ってしまおう、この勢いで。

「ただいまっ!」

 沓脱くつぬぎに兎和の靴を確認して階段を上る。兎和の部屋は二階の奥、一年前まで親父の書斎(実質物置)として使われていた洋間に足音も高らかに突進した。

 ノックなどいらない。だって兎和は兄弟だから。家族が家族の部屋に入るのになんの遠慮がいるもんか。

「兎和、いるか!」

 そう叫んで引きちぎる勢いで扉を開くと、


「………え」 


 下着姿の兎和と目が合った。

「あ………」

 なるほど、着替え中だったか。なるほどなるほど。学校から帰ったらな、着替えるわな。制服から部屋着に。そりゃあ、そうだ。わかるわかる。

「兎和よ」

「……はい」

「やっぱいるな……………………ノックは」 

「同感じゃ、ボケぇ!」


 硬直の切れた兎和から、皮膚がちぎれ飛ぶような大喝が飛んで来た。



 ………抗議ができなくなってしまった。

 どうしよう。むしろ抗議を受ける側になってしまった。全力を出されれば、逮捕まで行かれてしまうかもしれない。

「どちくしょう!」

 ベッドの中で悶絶した。悔しいのは文句を言えなかったからだけじゃない。何度頭を掻き毟ってみてもあの光景が瞼に焼き付いて剥がれないからだ。

 兎和は女だった。それはもう、どうしようもないくらいに女だった。

 物心ついて以来の付き合いだ。幼い頃は裸を見たことだって何度もある。それでも下着姿を目撃したのはこれが初めてだった。

 なんてことだ。全裸より薄布一枚纏った姿の方に女を感じてしまうなんて。ああ、胸の内側がゾワゾワする。もう嫌だよ、この感覚。僕はいつまでこの感覚と闘わなくてはいけないんだ。

「なっちゃん」

「はい、すいませんしたあ!」

 突然扉の外から話しかけられ、反射的に敬語の謝罪が飛び出した。

「覗きぶっかましといて被害者ヅラとかマジ舐めてました! マジすんません! 忘れますから! 白の下着のことはマジ忘れますから許してください!」

「し、下着? あ、ああ、それはもうええよ。よくはないけど、まあええよ」

「ほんと、ほんっっとすまんせんした! 白地に赤のラインがアクセントになったレースとリボンのふわふわ下着のことはマジ忘れますからすんません!」

「よう見とんなあ、おい! 忘れる気あるんか。もういいから。それより………うちこそごめんな」

「え、なんで兎和が謝んの?」

 土下座の姿勢を少し崩し、ちらりと扉を見上げてみる。

「なんでって、それは、その………取りあえず、入ってもいいかな?」

「ああ、いいけど」

 特に断る理由もないのでそう言うと、

「……お邪魔します」

 恐る恐るというふうに兎和が半身で部屋に滑り込んで来た。


「え、なんでなっちゃんベッドで正座してんの?」

「いや、なんとなく………」

「ほな、うちも」

 いや、なんでだよ。茶室に入る茶人のように、正座の姿勢で布団の上をにじり寄って来る兎和。なんだ、この構図は。ベッドの上で正座で向き合う幼馴染。僕は制服、兎和はいつもの部屋着。目を瞑ったって思い出せる上下グレーのスエット姿だ。まあ、今目を瞑ると出てくるのは下着姿なんだけど。

「ねえ、なっちゃん………」

「はい! すいません! 思い出してなんかいません、白の下着の方は全然!」

「もうええってその話は! それより、今日はうちもごめんね。その……色々邪魔しちゃって」

「邪魔? ああ……そのことか」

「……怒ってる?」

 やっぱり兎和も兎和なりに気になってはいたようだ。上目遣いで額と眼鏡の間から僕の目を覗き込んでくる。この眼をされると僕は弱い。これは兎和が心底反省している時の顔だからだ。

「いや………怒ってはいないけど」

 着替えを覗いた罪悪感も手伝って、ついついそんな答えが出てしまう。

「ほんまに? ほんまに?」

「ほんとだって。怒ってないよ、全然」

 全然怒ってないし、全然気にしてないし、抗議をする気も全然ない。

「全然は嘘やろ」

「よくわかるな」

「ごめんごめんごめん」

「いや、そこまで謝らなくてもいいよ。兎和に悪気がないのはわかってるしさ。俺のこと吹っ切ったっていうのも信じてるから。これから気ぃつけてくれたらそれでいいわ」

「あ、あの実はそのことやねんけどさ………」

「ん?」

 兎和はそこで一端視線を外すと、唇をツンと突き出すようにして歯を噛みしめた。この顔も知っている。これは兎和が何か言いにくいことを口にしようとしている時の顔だ。

 兎和は膝に乗せた拳でしばしごしごしと太腿を擦ると、

「やっぱり………無理でした」

 赤い顔を俯けたままそう言った。

「は……? 無理っていうのは……何が?」

「吹っ切ったっていうやつが……」

 ……ということは?


「今もやっぱり、めちゃくちゃ好きです」


「うぉい! 何言い出してんだよ、お前。今さら!」

「しゃーないやんかっっ! そんなもんっっ!」

 えー、怒られたー。僕以上のテンションでー。

「好きなもんは好きやねんもん! めちゃくちゃ好きやねんもん!」

怒りながら告られたー。なにこの新しいタイプの逆ギレ。

「うちかてびっくりしてんねん! うちってもっとサバサバした女やと思ってたのに、こんなんなってまうなんて。どうしよう、めっちゃ好き! なんやったら告る前よりめっちゃ好き。ああー、好きぃー。さっきも怒ってたのにいいよって言ってくれたー。優しー。好きー、やんやんやん」

「ちょ、落ち着け兎和」

「イタタタタ、好き過ぎて足つった」

どういう体してるんだよ。

「イタイイタイ、ちょっと待って、なっちゃん。落ち着いて! 大きな声出さないで! あんまいっぱい言わんとって!」

「全部お前の話だろ。足かせよ」

「え、なに? やだ、なんで足触るの? イタイイタイ、やんやん、足開かないで」

「いいからじっとしてろ」

 こむら返りの対処を知らない女子は意外に多い。僕は悶絶する兎和の足を掴むとスエットの裾をシャッと膝まで押し上げた。

「ふぃっ、やだ……」

「変な声だすなよ」

 そのまま爪先を握り体重をかけて押し込んでいく。

「ふぇぇ……ううっ…うっ……痛い」

「すぐ終わるから我慢しろ。もっと押し込むぞ」

「あうぅぅ」

「まだ痛いか?」

「……恥ずかしい」

「赤くなるなよ、こんな時に」

「しゃーないやん。なっちゃんも大好きな人にベッドでのしかかられて素足まさぐられてみーや。絶対赤くなるもん」

「のしかかるとか言うな! まさぐるとか言うな!」

 あと大好きとかもっ! 言うんじゃないよっっ! 

このまま二人して赤面していたら目も当てられない。雑念を排して医療行為として兎和の足を押す。兎和の白くて細くて引き締まった足を掴み、痛みに汗ばんだ小さな足の裏を握る………確かに素足をムキ出しにする必要は全然なかったかもしれないな。なんでこんなことしちゃったんだろう。だからって、今さら戻すのも意識してるみたいで恥ずかしいし………。

「あの、なっちゃん」

「な、なに? なんも考えてないぞ、別に。これは医療行為だし」

「……もうええよ。痛くなくなったから」

「お、おう、そうか。わかった」

 手を離すと、兎和はすぐさま裾を直した。そして、思い出したようにふくらはぎを擦って僕を見る。

「ありがとうね。すっごく痛かったけど………なっちゃんが必死になってしてくれたから……嬉しかったで」

 なんだよ、その言葉のチョイスは。ベッドの上で変なこと言うんじゃないよ。

「なっちゃん……シャワー浴びてくる?」

 はい、アウトー! はい、ふざけたー。確信犯の証拠捕まえましたー。叩きまーす。

「ち、ちが、変な意味じゃなくて! その、手を洗って欲しいの! すぐに!」 

「手……?」

「あ、だめ! ぜ、絶対、その手………かがんといてや」

「かぐかあ! お前、めちゃめちゃアホなのか! もう帰れよ」

「ああ、待って、怒らんといて。ちゃうねん、まだ話は終わってないから! てゆーか、こっちが本題やから!」

「引っ張んなって、また足つるぞ」

「うちなうちな、何か色々言っちゃったけど、二人の仲を応援するって気持ちはホンマやから! それだけは信じて欲しいねん!」

「無茶を言うな」

「いや、マジで! これはもうガチ中のガチやから! うちなっちゃんのこと好きやけど、姫しゃまのことも好きやねん。知ってるやろ?」

「ああ、それはまあ……」

 小さい頃からアイドル好きだった兎和は、今でも可愛い女子に目がない。学校にも何人かのお気に入りがいて、中でも姫乃はその筆頭に位置しているらしいが。

「うちな、考えてん。好きななっちゃんと好きな姫しゃま。好きな二人がくっついてくれるならそれが一番ええのかなって」

 右の人差し指と左の人差し指、それぞれピンと立て、バッテンのようにくっつけてみせる兎和。

「いや、まあよくはないねんで。全然嫌やねんけど。でも、イヤ界の中では一番いい結末かなって思う。姫しゃまがしょーもないチャラ男に喰われたり、なっちゃんがあざとい女子アナみたいな女に喰われたりするよりは、大好きな二人が純愛でくっついてくれるのが一番いい」

「兎和……」

 イヤ界ってなんだ。

「だからうちは二人のことはちゃんと応援したいねん。全力応援ガール! それだけは本気やから。ね?」

 戦隊ヒーローのようなポーズで兎和は笑った。何の屈託もない向日葵のような笑顔。

お前はどうして、そんな笑顔ができるんだ。言ってることは一見辻褄が合っているように思えるけれど、でもそれって、言い換えれば大好きな人を二人同時に失っていることにはならないのか。

「なっちゃんを好きな気持ちもさ、二人を応援してる内にまた徐々に家族愛っていうか友情っていうか、そういうのにシフトして行けると思う。幾星霜の時を経て」

「何年のスパンで計画立ててんだよ」

「えへへへ。急には無理やと思う。でも、うち頑張るから。そこはなっちゃんも協力っていうか、我慢してくれへん? うち今んとこまだまだメロメロやから急に変なこと言い出すかもしれんけど、そこは怒らずに、また発作が出たなーくらいで、温かい目でスルーして欲しいと思います。ええかな?」

「さっきのこむら返りの時みたいにか?」

「そうそう」

「………わかった」

 それ以外、どういう返事が出来ただろう。兎和も兎和なりに苦しんで出した結論なのだから。やはり壊れた水槽はもう元には戻らない。それならば新しい水槽を作るしかない。新しい環境、新しい水圧に適した水槽を一から慎重に構築する以外にない。

「よし、ほな無事和解ということで、仲直りの握手………は、せん方がええか?」

「うん、しない方がいい」

 そう。あくまで慎重に。

「せやね。じゃあ、早速で悪いんやけどね、なっちゃん」

 兎和は別段気を悪くした様子もなく、出しかけた手を引っ込めると、再びベッドの上で正座の姿勢を取り直し、

「……協力して欲しいことがあるんやけど」

 

 急に真面目な顔でそう言った。


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