23話 負けヒロインは気付かない



振り絞るような笑顔でマジシャンからカードを受け取った兎和とわは、最後に一つだけ行きたい場所があると言って返事を聞かずに歩き出した。


夕日に向かって黙って歩く兎和が、ようやく足を止めたのは、

「え、ここって……」

 出来たばかりのビルの前。

 その屋上に建つ大きな赤い観覧車を僕は見上げた。流行に疎い僕でもさすがにこれは知っている。二人で乗れば別れないと言われるカップル御用達のデートスポット、どこぞの修学旅行先の阿修羅像と同じ類の恋の聖地だ。


「……これ、乗りたい」

 マジシャンに貰ったカードの角を指で弾きながら兎和は言った。

「まだ乗ったことないねん。ここだけよ、うちが唯一入るのに躊躇う場所は。乗るならなっちゃんとって決めてたから」

「でも、これは………」

「お願い、なっちゃん」

「………」

「お願い、これが最後やから………お願い」

 夕日を浴びてそう言う兎和の顔は、一週間前の修学旅行の夜まで僕が知らなかった顔だった。 



「ごゆっくりいってらっしゃいませ」

 外からガチャリとロックを施されると、狭いゴンドラに空調とモーターの唸りが満ちた。クッションのない固い椅子に腰を落ち着け上昇を待つ。

「うわ、高っ!」

 耳元で兎和の興奮した声が弾けた。


 ビルの屋上に建つ観覧車は出だしの時点でもう高い。薄いスモークの張った窓から、普段は目にすることのないビルの屋上や駅の屋根が見下ろせた。

「うわー、すごっ。屋上って汚っ。お、可愛い子発見! へー、駅前の道って歩いてる時は真っ直ぐに思えたけど、上から見たら結構グネグネなんやね」

「そ、そうだな」

 答える声が微かに震えた。

 なぜだろう、いつも乗ってから思い出す。僕は観覧車が少し怖いんだ。

 高いのは平気だ。けれども、どうしても鉄骨の強度が信頼できなくなる。塗装の禿げたボルトなんかが目に入るとゴンドラが落下したらとか、観覧車ごと横倒しになったらと想像してジワリと背中に汗が滲んでしまう。誰かとわいわい喋りながらならまだマシだが、一人で乗っていると尚更怖い。


「いやー、それにしても係員の人、めっちゃ困惑してよね」

 電話口から兎和の笑い声が漏れてきた。

「そりゃあ、困惑もするだろうよ」

 二人組でやって来て一人ずつ別々のゴンドラに乗りたいなんて言い出したら。

 観覧車に乗りたいと言った兎和は、その後すぐに「別々でいいから」と付け加えた。

「本妻の姫しゃまを差し置いてうちが一緒には乗らへんからね、これでお話だけしましょうよ」

 冗談めかしてそう言った兎和の顔は、目の前に突き出されたスマートフォンに隠れてよく見えなかった。


 ゴンドラはゆっくりゆっくりと上昇を続けている。

「はー、でもやっぱりすごいきれいやね。夜やったらもっとロマンチックなんやろうなぁ。そりゃあカップルも乗りますわ。キスもしたらいいですわ」

「何目線のコメントなんだよ」

「これで明日のデートは完璧やね。ラストはこの観覧車で決まり。ビビリのなっちゃんでも前日に一回乗ってたら本番はマシになるんちゃう?」

「な、ビビッてねーし!」

 なんで、バレた。声しか聞こえてないはずなのに。思わず一つ後ろのゴンドラを振り返ってしまう。


「バレてへんと思ったん? なっちゃん乗る前から顔面蒼白やったやんか」

「そ、そんなことねーし!」

「どうする? 観覧車止まったら? 今日風強いからありえるでー」

「ママママママ、マジで?」

「あはははは、動揺しすぎやって。ホンマ嘘へたやなあ。可愛い」

「むぐぐ、うるせーわ」

「あ、拗ねた。めんどっ」

「もう切るぞ」

「あ、なっちゃん、見て見て! 何あれ、すごい!」 

「え、なになに? どこ?」

「あそこあそこ! 山のところ。うわー、珍しい………夕日やで」

「毎日見てるわ!」

「あはははは」

 耳元で兎和の笑い声が跳ね回る。笑顔が想像できるような表現力に富んだ笑い声だった。


「うちなぁ、夕日好きやねん。なあ、あん時も夕日が綺麗やったよね。なっちゃんがふざけてプロポーズして来た時」

「またその話かよ。そんなことしてないって言ってんだろ」

 飛び切りウンザリした声で僕は答える。

「えー、まだ忘れてるん? ショックなんですけど。ほら、めっちゃ変なカッコしてさあ、結婚してくださいって嘘で言ってくれたやん。エイプリルフールに」

「ないない」

「あるって! うちが修学旅行の夜に結婚しよとか言ってもーたのもそのせいやねんから。冗談の告白を本気で返すみたいな。ホンマのホンマに覚えてないん?」

「覚えてない」

「嘘や嘘や。絶対覚えてるよ」

「覚えてない。知らないから」

「嘘やー! 嘘って言えや。ショックやねんぞ、結構」

「……それはこっちも一緒だよ」

「え、なんて? ごめん、風の音が強くてよく聞こえへんかった」

 

 まったくもう。


 なんでこいつは、肝心なことをいつもいつも聞き逃すのだろう。

 あの時だってそうだった。


「あれ、なっちゃん? 聞こえてる? 切ってないやんね?」

 わかれよ。お前の言ったとおりだよ。僕は嘘がヘタなんだよ。エイプリルフールだからって嘘なんてつくわけないだろう。


「あ、見て、なっちゃん。もうすぐ頂上やで………」

 ふざけて告白なんかしていない。


「明日は、ちゃんとここで姫しゃまとキスするんやで……」

 あんなこと冗談なんかで絶対言わない。


「そしたら、二人は永遠に結ばれるから………」

 あれは僕の本気のプロポーズだったんだ。


 オシャレな兎和からしてみたらふざけた恰好に見えたかもしれない。けれど、あれは僕なりの精一杯の正装だったんだ。弟としてしか見てくれない兎和に、なんとか男として見てもらえるように。


「なっちゃん、明日はうちのことなんか気にせずに、目いっぱい楽しんできてね」

 ゴンドラが頂上を超えて下降に入ると、兎和の乗るゴンドラが徐々にせり上がって来た。


「いっぱい楽しんで、いっぱいイチャイチャして、お互いもっと好きになるの」

 僕に背を向けてゴンドラに収まっている兎和。

 その小さな背中が徐々にせり上がって来る。


「そういうの、すっごい素敵やと思う」

 泣いているのがすぐにわかった。


「良かったね、なっちゃん。素敵な彼女が出来て。うちはなっちゃんも姫しゃまも大好きやから。二人が結ばれてくれたらすっごい嬉しいよ」

 兎和は泣いていた。

 とめどなく溢れる涙を拭いもせず、言葉と言葉の間に嗚咽を隠しながら。

 兎和は泣いていた。


「キスかー。できるかなー。なっちゃんヘタレやからなー。あははははは」

 声だけが、相変わらずの明るさで電話口で跳ねていた。


「兎和……」

「なっちゃん………」


 僕のゴンドラはゆっくりと下降を始めている。

 入れ代わりに兎和のゴンドラが頂上に到達する。その十秒前。

 僕のゴンドラが頂上を通過した十秒後。

 僕と兎和の高さがちょうど一致する瞬間。

 二人のゴンドラが同時に頂上になる瞬間。


 大好きやで……。


 兎和は無言でスマートフォンに口づけした。


 僕も兎和が大好きだった。

 確かに。あの時まで。


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