18話 負けヒロインは核心を突く
その夜、僕はまた風呂上がりに桜の木を眺めていた。
幼い頃に
「
「……別に」
マイクがギリギリ拾う程度の音量で姫乃が答える。
いや、別にってことはないだろう。あの電話が嫌いが自らかけてくるなんて、それだけももう一つの事件である。
「泥棒でも入ったか? まさか両親が倒れたとか?」
「……ううん」
「じゃあ火事か? 地震か?」
「……ううん」
違うのか。まあ地震ならこっちも揺れてるはずだけど。
となると後は………。
「今日はうちまで来てくれてありがとな、楽しかったよ」
「…………」
これも違うか。
ワンチャン、今日の思い出を二人で振り返ってくれるのかと期待したけれど、やっぱりそんなことあるはずがない。じゃあなんだ。姫乃がゾンビより苦手にしている電話をわざわざかけてくる理由。
やっぱり、今日の姫乃はちょっと変だ。どういうつもりで電話なんか。用があるならメールで済むはずなのに…………あれ、待てよ。これってもしかして、そういうことなのか?
「あ、あのさあ、姫乃。もしかしてだけど、僕の声が聞きたかったのか?」
「………まむ」
なんてこった、やっぱりそういうことなのか。
いや、無理ですが。それは絶対無理ですが。姫乃だって知ってるだろ、カラオケにだっていかないタイプなんだぞ、僕は。
無理無理。絶対無理。それは絶対ありえない。
「……夏」
けどやるしかない。絶対に無理だけどやるしかない。だって姫乃が聞きたいって言ってるのだから。ここでやらなければ男じゃない。
窓を閉めた。カーテンも閉めて電気も消した。心の迷いも追い出した。多分兎和の部屋には聞こえちゃうけど、構わない。やってやるさ。
「うーさーぎ、おーいーしー」
「あ、そうじゃくて」
違うんかいっ!
恥ずかしっ。恥ずかしっ。ぎぃやあぁぁぁ、恥ずかしっっ!
「ご、ごめんなさい。歌は、嬉しいんだけど………じ、時間がなくて……」
「時間?」
なんの時間? だめだ、今日の姫乃はやっぱりよくわからない。せめてレモンティーを飲んでてくれていればヒントも多くなるのにって―――んん?
「なあ、姫乃……」
「なに……?」
「もしかして……………トイレ行きたい?」
「まむっ!」
いや図星かよ。なんだよ、それ。僕の決意を返してくれ。
「……かれこれ二時間くらい……行きたい。もう限界」
「行ってきなよ。トイレにゾンビはいないから」
「なんでそんなことが言い切れるの!」
面倒くさいゲームやらせてくれたなあ、兎和のやつ。
「うう………お腹が痛くなってきた」
「ほら、早く行った方がいいって。我慢しすぎると体悪くするぞ」
「……行く。うう、怖い」
「頑張れよ」
「……今、部屋出た」
「うん。実況はいいから」
「……どうしよう、お父さんとお母さんがゾンビになってたら」
「なってないよ」
「わたし、お母さんを躊躇わずに撃てるかな?」
お父さんもちゃんと躊躇うんだぞ。
「ねえ、どう思う? わたし撃てるかな?」
まず何を撃つ気でいるんだよ。
「……さっき何で歌ってたの?」
「今思い出さなくていいんよ、それは」
出来れば永遠に忘れてくれ。
「トイレついた」
「ゾンビはいるか?」
「……いない。もう大丈夫、ありがとう」
「うん、よかったな」
本当に良かった。トイレの中まで付いて来いと言われてたらどうしようかと思った。
「それじゃあね……」
「あ、待って!」
「なに?」
少しだけ苛立ちの混じる声で姫乃は尋ねた。トイレを前にして膀胱は排出の準備を開始しているようだ。
「来週の土曜日デートしよう」
「デート……?」
なぜ今聞く? そんな声で姫乃が繰り返す。
「そう、デート。外で。二人で」
「でも……」
「いいだろ?」
「……わかった」
バタンと扉を閉めるように電話は切れた。
我慢が限界に達したらしい。なんでもいいからとにかく早く電話を切りたい。そんな逼迫が伝わるような切れ方だった。
「……やった」
電話口で思わず独り言ちた。
言えた。言えたぞ。夕方は喉元でつっかかていた言葉が今はつるりと吐き出せた。何だか、膀胱を人質に取ったようで気が引けるけれどとにかく言えた。
「言えたぞー!」
「うわー、びっくりしたあー!」
内に収まり切れない喜びを窓から外に放出したら、隣の窓から外を見ていた兎和が大声を上げてひっくり返った。夜中に近所迷惑なやつだ。
「ちょ、なになに? どうしたん、なっちゃん」
「おお、聞いてくれよ! 来週の土曜日なんだけどさ」
さっそく電話でのやり取りを報告する。嬉しかった。自分の口で姫乃をデートに誘えたことが、姫乃が応えてくれたことが。恋人同士なのだから当たり前といえば当たり前だが、それでも兎和ならこの喜びを共有してくれる。そんな思いでつらつらと喋っていたのだけれど、
「だめ!」
兎和の表情は一瞬にして硬直した。
「え……兎和?」
「それ、キャンセルして。絶対」
「何ってるんだよ、お前……」
「絶対だめだから。行かせないから!」
「は? いや………冗談?」
では、ないのだろう。顔でわかる。兎和の目は本気だ。
「どうしたんだよ、お前。なんでそんなこと言うんだよ」
「それは……とにかくダメ」
「兎和!」
兎和だろう。兎和が誘えと言ったんじゃないか。だから頑張ったんだ。それなのに。
「だって……だって……」
兎和はそこで言葉を切ると、弱気をはらんだ視線を桜に逃がして唇を噛んだ。そして、痛みに耐えるようにきつく瞼を閉じ、ゆっくりと唇を解いた。
「だって、なっちゃん………デートに行ける服、一個も持ってないやん」
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