5話 勝ちヒロインが可愛すぎる
「お待たせ、
シャワー浴びてから行くという
姫乃は躾けられた犬のように大人しくお地蔵様の前に立っている。彼氏の欲目だろうか、清浄な朝の光を浴びる姫乃は石造りの神様よりも神々しく見えた。
「おはよう」
お地蔵様の見守る前で、僕達は恋人になって初めての朝の挨拶を交わした。
「…………」
いや、正確に言うと交わしてはいない。僕が一方的に発しただけ。姫乃は無言でパックのレモンティーのストローを咥えたままだ。
「えっと、じゃあ……行く? 学校?」
「…………」
姫乃はやはり無言のままだが、下げた視線で僕の歩き出す気配を伺っているあたり、出発することに異存はないらしい。
「やー、いい天気だね、今日は」
「…………」
「今日はあったかそうだし弁当も中庭とかで食べてもいいかもな?」
「…………」
「いや、やっぱりクラスメートに見られてもアレだかやめとこうか」
「…………」
集団登校する小学生や自転車の中学生とすれ違いながら、僕は饒舌に、姫乃は黙々と並んで歩く。一見すると、たまたま目的地と歩調が同じなだけの別々の二人のように思えるかもしれないけれど、これが僕と姫乃の距離感だ。
繰り返しになるが、姫乃は極端に口数が少ない。
基本的に必要なこと以外は一切喋らない。てゆーか、必要なことも喋らない。表情もあまり変わらないし、もちろんボディランゲージだってほとんど取らない。だいたい棒立ちでレモンティーを飲んでいるのが基本姿勢だ。大別すると動物より植物に近いのかもしれない。一年生の終わりに転入してきて以来、多分誰も姫乃の笑顔を見たことがないだろう。
僕以外は。
ええ、もちろん僕はありますとも、彼氏ですから。言葉だって僕は前では比較的よく喋る。持ち前の性格もあるけれど、ただ単に目立つことが嫌いなだけなのだ。だから、クラスメート達がいないシチュエーションで僕と二人になると姫乃はちゃんと喋ってくれる。彼女はそういう女子なのだ。
つまり、今は異常事態ということだ。
僕と二人きりなのに、うんともすんとも言わないのだから。
「姫乃? どうしたの、元気ないけど?」
「…………」
「……怒ってる?」
――ずずずっ。
と、レモンティーのパックが音を立てた。
なるほど、怒ってるな。
なんで? なんかした、僕? してないよね? するわけない、だって会ってまだ一分だ。彼女怒らせRTAの世界王者でも一分台はさすがにないはずだ。
――ずずずっ。
しかし、現実の姫乃は無言を貫いているわけで。少なくともご機嫌麗しいとは決して言えない。やはり僕が何がしかの地雷を踏み抜いたと考えるべきだろう。
まさか、地蔵? 地蔵の前で待たせたことがいけなかったのか? 『生まれも育ちのクリスチャンのわたしを邪教のシンボルの前で待たせるなんて許せない! 踏み絵飲み込んで死ね、ボンクラ』ということなのか?
――ずずずっ。
うん、違うよね。知ってた知ってた。
姫乃がクリスチャンじゃないことは知ってたし、ついでいうと怒ってる原因にも薄々見当はついている。
兎和だろう。
それしかありえないだろう。そりゃあ、初めてできた彼氏が他の女と一つ屋根の下で暮らしていたら面白くないに決まっている。僕が逆の立場だったら発狂している自信がある。もちろん、我が家と兎和家の事情は事前に話しているけれど、聞くのと見るのではインパクトが違う。二人揃って朝から玄関でお出迎えなんてされた日にゃ、口も利きたくなくなるってもんだ。
――ずずずっ。
フラれるのか。まさか僕、初日でいきなりフラれるのか? あんまりだ。怒らせどころじゃない。フラれRTA世界王者じゃないか、このままじゃ。
チラリと姫乃の顔を盗み見た。
相変わらず能面のような表情で、かなり前から空っぽになっているパックをストローでずずとやっている。
……可愛いな。これからフラれるという時に考えることではないかもしれないけど、やっぱりこの子は可愛いと思う。単純に顔面の造詣が美しいとかいうこと以上に醸し出される雰囲気が、全身に纏う空気が、僕の心臓をぶるぶると震わせる。そばにいるだけで静かに息を止めさせる。
つまり、率直に言ってタイプなんだ。
この子に告白された時、本当に嬉しかったことを思い出した。
「ねえ、近道! こっち行こう」
このままフラれてなるものか。手を取って姫乃を薄暗い路地に引き込んだ。遅刻なんて気にするような柄でもないが、この際なりふり構っていられない。
「姫乃!」
「……まむっ」
世に言う壁ドンというやつである。狙ってやったわけじゃない。たまたま偶然、偶発的にこの姿勢が選択されただけだけど、人生初壁ドンが行われた。初彼女、初登校、初壁ドン、この流れで初破局だけは御免蒙りたい。
「違うからね、姫乃。僕と兎和の関係は姫乃が思ってるようなとは絶対に違うから!」
「……え?」
「あいつとは生まれ時から知り合いで家族みたいな感じなんだよ。しかも姉とか妹ってより男の兄弟って感覚? そう、そうなんだ! だから一緒に住んでるからって変なことなんて全然起きて―――」
ないよな? 今朝のあれはルーティンだからセーフのはずだ。
「本当にないから! 僕が好きなのはこの世でたった一人、姫――」
「わかったから!」
「え?」
「……わ、わかってるから。そんなに言わなくても……」
僕の渾身の告白を一番いい所で止めたのは、他ならぬ姫乃自身だった。僕の腕の輪の中で俯けた顔を破裂しそうなほど赤く染めて、心の欠片を吐き出すように姫乃は言う。
「
「そ、そうなの?」
こくりと姫乃が頷いた。
「怒ってないの?」
今度はぶんぶんと顔をふる。
じゃあ、なんでずっと黙ったままなんよ。ビビるじゃんよ。
「それは………き、緊張してたから」
「緊張? 僕に? なんで? 今さらするか?」
「するよ! ………するよぉ」
一瞬目を見開いた姫乃は、それを恥じるかのように両手で顔を覆い隠して指の間から息を漏らした。
「だって……ずっと好きだったんだよ? ずっとずっと好きだったんだよ、夏のこと。その夏がわたしの、わたしの………彼氏だなんて、幸せすぎてもう……無理。わたしが選ばれるなんて思ってなかったから、絶対兎和ちゃんだって思ってから。昨日の告白の時、最後に兎和ちゃんが入って来た時……ああ、終わったって思って。もう一生泣くしかないって思って。だからほんと信じられなくて。朝起きて全部夢だったのかなって思っちゃって………喋っちゃったら夢から醒めちゃいそうな気がして。ごめんね、つまらないよね、こんな女。わたしも兎和ちゃんみたいに喋れたらいいのに。兎和ちゃんみたいに楽しく出来たらいいのに。心配した? ごめんね、大好き」
それまでの無言を取り戻すかのように、姫乃は一気に喋り切った。
「お、おう……そうなんだ。大丈夫だよ、全然、心配とかないし……うん」
ヤバい。最後何て言った。もう一回、アンコールお願いします。最後だけでいいんでお願いします。
「あの、夏……?」
「ん、何?」
来るか? アンコール来るか? 待って、心を整えるからちょっと待って。
「手……囲むの止めて……死んじゃう……」
「手? んおっ、ごめん!」
慌てて身をどけた。そう言われればずっと壁ドン継続中だった。哀れな姫乃は、僕の圧力に追い込まれて壁に埋もれて行きそうなほど身を縮こまらせていた。
「はぁ、ちょっと休憩させて……」
薄い胸に手を当てて鼓動を抑えるように深呼吸を繰り返す姫乃。
これ幸いにと僕も全力で心臓を落ち着けにかかる。絶対口には出さないけれど、実のところ僕だってバッキバキに緊張しているんだ。何も映っていないスマホを弄るフリをして慎重に鼓動を宥めていく。絶対姫乃にバレないように、けれど姫乃より早く。
「よし、もう大丈夫? じゃ、そろそろ行くか。学校」
「……うん。あ」
「何?」
「……ううん。あんまり見ないで、顔。目が合うと緊張しちゃう」
「おお、そうか。気ィ付けるわ」
「あ、でも、夏の顔は見たいな」
「急に我儘言い出したな」
「あっち向いてて、壁の方。十秒横顔見たい」
「なんだよ、それ。遅刻するってほんとに」
「お願い……だめ?」
「いいけどさ」
姫乃の困り顔はズルい。断れるはずがない角度に眉を傾けて来る。仕方がないので言われるままに壁を見る。ごく普通の薄汚いブロック塀、苔が渇いて固まっていた。こんなものに姫乃を押し付けていたのかと思うと申し訳なくなってくる。
「……じー」
おお、見とる。めっちゃ見るな、この子。なんか恥ずいんですけど。視界の端にチラチラと姫乃の髪の毛が入ってくる。もう十秒たったんじゃない? しまったな、タイムキーパーを決めてなかった。
「……じー」
近寄って来たし。それありなんか。これも失敗だ。距離を限定するのを忘れてた。頬にじりじりと視線を感じる。十秒まだ? マズいぞ、また鼓動がアップを開始しやがった。
「……じー」
近いって、ほんと。もう輻射熱すら感じられる距離だ。『じー』って音が聞こえてきそうだ。心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
「……じー」
もう言ってない? 『じー』って、口で言ってない? 聞こえてるもんしっかりと。十秒まだ? もうとっくに過ぎてるだろ。ゾワゾワする。右半身がゾワゾワする。十秒まだ?
「はぁっ――かっこいい」
ジャスト十秒、姫乃はのけ反るようにして溜息を漏らした。そして再び僕から距離を取り、塀に手をかけて呼吸を整える。
危なかった。姫乃は誠実だった。一秒でも延長されていたら心臓が頭蓋骨を突き破って出ていってしまうところだった。恐ろしい女だ、視線だけで男の心臓を噴出させてしまうなんて。
「じゃあ……行こっか」
しかも一方的に満足して歩き出す。人一人殺しかけといて、この態度。
前から薄々感じていたけれど、姫乃はコミュ障という皮を被った我儘だ。『わたしはコミュ障なんだから可哀想でしょ、そっちが察して』というスタイルで我儘を通そうとする。しかも自分でそのことに気付いていない。
ここはひとつ、わからせてなくては。彼氏として。この我儘っ子を改めさせなければ。
「よし、行こう。一緒に」
さりげなく、あくまでさりげなく姫乃の手を握った。
「――え?」
途端に姫乃の体が固まる。
ふふふ、彼氏を舐めるなよ、姫乃の弱点はすでに把握済みなんだよ。
姫乃は極度の恥かしがり屋な上、恥ずかしがっている自分を見られることを異常に嫌う。不意に手なんて握られた日には、自分を保っていられないはずだ。
「夏……離して……恥ずかしい」
おお、困っておるわい。困っておるわい。
「いいじゃん、誰も見てないし」
「やだ……恥ずかしい……やだ」
「じゃあ路地を出るまでは? それならいけるだろ」
「………じゃあ、それで」
あれ、了承されちゃった。なんで? それは困る。言っとくけどこっちだって恥ずかしいんだからな。そっちに腹を括られるとこっちの方が恥ずかしさが増す。
どうしよう、こっちから握った手前、僕の方から離すわけにいかないし。え、本当に恥ずかしくないの?
「だめ! 顔は見ないで……」
「ああ、ごめん」
「手はいいけど顔は……だめ」
なんだよ、やっぱり恥ずかしいんじゃないか。それでこそ姫乃だ。よかった、なんか安心した。
「………」
安心したら顔が見たくなってきた。
姫乃は今、どんな表情をして僕の横を歩いているんだろう。確実に赤くはなっているはずだ。眉も困り眉になってるとして………口はどう?
「見ないでって言ってるでしょ!」
「ごめん。つい………本当にだめ?」
「だめ! だめだめだめ、見られたら死ぬ」
「死なないでしょ、可愛いのに」
「か、可愛いとか……言わないで!」
「なんで?」
「いいから……言うな」
掌にギュっと爪を立てられた。姫乃は可愛いと言うといつも怒る。なぜかはわからない。しかし、こうまで拒否されると見たくなるのが人情だ。
「チラッとは?」
「死ぬ」
「音速で。パッパッて」
「死ぬ」
「ほんとお願い」
「絶対死ぬ」
なんてこった、徹底拒否じゃないか。ここまで頑なだとは思わなかった。
でも、そこまで言う割に絶対に手を離そうとしないのは、どういった精神の作用なのだろう。むしろ、拒むほどに小さな手をギュッと固く結んでくる。やっぱり、この子は可愛い。
「姫乃……」
「……光速なら……いいよ」
本当に可愛いと思う。
路地はもうすぐ終わる。
あと少しで僕らは夢のような暗がりから日の降り注ぐ大通りに出てしまう。
それまでに一瞬だけ。世界の誰も見たことのない姫乃の顔を。
そう、あの角を曲がる前に。
暗がりから出る前に。
「ちょちょちょ、ちょーっとごめんやよー、ごめんやよー。ちょーっと、ちょっーと、はいはいは~~い」
……変な邪魔が入る前に。
「ひぃっ、兎和ちゃん!」
「兎和っ!?」
「ああ、ごめん! ご、ごめーん! ど、どうしよ、違うねん。邪魔する気はなかってん。大丈夫、うちのことは気にしなくてイチャイチャしてもらって大丈夫やから。と、通すだけ通してもらえませんかね? ね、通るだけ。マジで委員の仕事に遅刻するから。クラス委員が遅刻はマズいから」
……ああ、しまった。そりゃあ、そうなるか。
ただでさえ寝坊して遅刻寸前だった僕を先に行かせたんだ。当然、後発した兎和は近道を通ろうとするだろう。呑気に壁ドンなんてしていたら追いつかれるのは当たり前だ。しかも時間的に引き返して迂回する余裕なんてない。遅刻の許されないクラス委員の通る道は………。
「ごめんやよ? ごめんやよ? 空気通りまーす。空気が通りまーす。そよそよ~~」
………僕と姫乃の間しかない。
「ほなねー。ごゆっくりどうぞー。空気でした~~。空気ダッシュ! おらおらおらー」
やたらと存在感のある空気が去って行く。後に残された僕達二人は、
「……じゃあ、行こっか」
「……うん」
再び並んで歩き出した。
この状況で手を握り直す度胸が僕にあれば、僕と姫乃はもう少し早く付き合い始めていたのかもしれない。
くそう、兎和のやつめ。
本当にこいつは、最後に割り込んでくるのが好きなやつだ。
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