第11話 一触即発

 何度か茶を注いだりもした頃、皇子は文机の上に書物が複数あるのを見つけた。

 綺麗とは言い難い、|縒(ほつ)れたり日に焼けたりしたそれらは恐らく書庫の物だろうと見当をつける。

 そういえば、彼女はあの時も書庫にいた。


「お前は書を好むのか?」

「え? ええ……とはいえ、読むのはもっぱら詩や物語ですけど」


 答えの通り、皇子の視線の先にある物もそうだ。

 それが何か? と尋ねる夏蓮に、なんでもないと首を振る。


「書を読むわりには、察しが良くないと思ってな」

「なっ! 嫌味ですか!?」


 口を開いたかと思えばまた出てきた嫌味に夏蓮の語気が荒くなる。

 恥ずかしいからか腹立たしいからか、ーーどちらともなのかもしれない。

 まろい頬に一瞬にして赤みが指す。悔しさをやり過ごせずに二、三度ぶんぶんと拳を空振りさせている姿に、やはり女官たちの評判は間違っていると思った。


 夏蓮は、本当に嫌な人だと皇子をきつく睨んだ。

 別に、自分自身で察しがいいとか、頭の回転が早いだとか思ったことがあるわけではない。遅くもないだろうが、精々人並み程度はあるだろうと思っている。

 だがしかし、それでもいざ人から指摘されるとどうにも面白くない。しかもそれが、嫌っている人物からだからこそ一層に不快加減も増す。


(どうしてこの人はこんなにも私を怒らせるのかしらねぇえ?)


 何かにつけて勘所を突いてくるものだから、罪悪感を感じて損した気分だと憤慨する。人を怒らせて何が楽しいのかと問い質したい気持ちでいっぱいだ。


「すごいな、頬が林檎りんごのようだ」


 何が面白いのか笑いながら伸ばしてくる手を無遠慮に叩き落とす。べしんと乾いた音が威勢良く響いた。

 おや、と叩き落とされた手の甲を見て瞬く。女のものより筋骨の張ったそれはうっすらと赤くなっている。

 夏蓮は険しい表情のまま、いい加減にしてと唸るような声で吐き出した。


「あなたが何を考えているのか、わたしにはさっぱりわかりません。ーーそんなにわたしがお嫌いなら、率直にそう仰ればいいでしょう」

「………」

「自ら望んで上がったわけでもありません。一言仰ってくだされば喜んで後宮を辞させて頂きます」


 ああ、そうだ。それがいい。

 怒りに任せて吐き出したものが思いの外良いもので、すぐにでもそうしようと踵を返した。


 しかしそれを、一歩も踏み出す前に阻害される。


 まず掴まれたのは腕だった。肘よりも少し下のあたりを強く引かれた。

 次に攫われたのが腰だった。腕を引かれて体勢を崩しかけたところで、その隙を突かれて引き寄せられた。


 そして気がつけば、皇子の腕の中にいる。


「ちょっと……!?」


 いきなりの事態に驚いて、何も考えずに犯人を振り仰ぐ。すると、予想より遥かに近い距離に一瞬意識を奪われた。

 僅かに軋む椅子の音に、はっと我に帰る。


 ああ、本当に腹が立つ。


 こうして囚われては、いかに抗おうと自分では逃れることなどできない。

 それがわかっているからこそ余計に嫌だった。


「随分と勝手な方ですね。自分で追い出そうとなさったのに、今度は引き止めるのですか」


 棘を持つ言葉に、腕の力が強くなる。息苦しさに顔を顰めたが、意地でも言うものかと耐える。


「お前は本当に察しが悪いな」


 つい先程にも言われた言葉をまたも言われる。謝罪なり誤魔化しなりが出てくるのかと思ったのに、まだ嫌味を言うのか。

 夏蓮の機嫌がさらに下降の一途を辿る。


 対して、皇子はどうしたものかと思案顔をしていた。喃語なんごのような呻き声をあげて、ああでもないこうでもないと頭を悩ませている。


 気に食わない男の膝の上に抱えられるというのはなかなかに屈辱的な状況だ。

 緩まない腕の圧倒的な筋力の差ばかりでなく、眼前に突きつけられた喉仏によって視覚的にも性差を意識させられる。

 女に生まれたこの身を憂いたことはなかったけれど、少しだけ疎ましく思い始めた。

 ちくりと胸に疼痛が奔る。もしも男に生まれていたならば、こうなることもなかった。もし出逢うことがあったとしても、少なくともこんな形ではなかったはずだ。


 女の身で生まれたからこそ、こうして気まぐれに巻き込まれ、弄ばれている。


 夏蓮の胸中に生じたどす黒いドロドロとしたおりが、暴れるように渦を成す。

 酷く不快な気分だ。どうして私が、と怨嗟を吐き出したくて堪らない。


「貴方なんて大嫌いよ」


 一つだけ堪え損ねて口から零れ出た恨み言は、自分でも驚くほど冷淡な声だった。

 ふう、と皇子が嘆息する。困ったな、だなんて口先だけの言葉が頭上から降ってきた。


「…………どこで間違えたのだろうな」


 そんなの、最初っからでしょう。


 ついて出そうになる言葉を理性によって押し留めた。その代わり、自分の肩に巻きついた線の太い腕をべちんと叩いてみる。じゃれつくように体をもたれかけられても、いい加減に重いのだ。

 それでも彼は腕の力を多少緩めただけで、夏蓮を解放することはなかった。


「どうしたものだかなぁ……」


 そう呟いて肩口に顔を埋められても、今度は何かを思うことはなかった。

 人形のようにされるがまま。違うところといえば、時折思い出したように茶に手を伸ばしたりすることくらいだ。


 皇子はいつまでそうするつもりなのか、どれだけ待っても夏蓮を放す様子は見受けられない。


「なぁ。お前は何故そうも私を嫌うんだ?」


 望まぬ召し上げだからというには過剰ではないかと皇子は言うが、夏蓮はこれでも抑えている方だと主張した。

 皇子がますます顰めっ面を作る。


「貴方はほんの気まぐれを起こしただけなのかもしれませんが、わたしには人生を変える大きなことなのです。それに、わたしは不誠実な方は嫌いです」

「ちょっと待て、最後は聞き捨てならないぞ。私のどこが不誠実だと言うのだ」

「一時の気まぐれで会ったこともない女人に手を出す方を、どうして誠実な方だと思えまるのですか?」


 ぐっと眉根を寄せた皇子はあからさまに不機嫌だが、夏蓮は今更だと気に留めない。

 指摘されたことも、不誠実とは言えないのかもしれないけれど誠実とも言えないから訂正することはなかった。


「なら、お前はどうしたら私を愛するのだ」

「………………はい?」


 ぶすくれる皇子の言葉は夏蓮の予想の斜め上を遥かに通り越す。今何を言われたのかと、自分の耳を疑わずにはいられなかった。

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