第10話 茶席にて

「ーー本当に、本っ当に、驚きましたわ……」


 心臓が止まるかと思いました、とまで言う鳳泉を、大袈裟と思いながらも夏蓮は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 あの後、鳳泉は唖然と硬直した。

 後ろに付き従っていた女官たちなどは蒼白になって愕然としていた。

 卒倒する者が出なかったことが不思議なほど、一躍騒然としたのだ。


 そのことを思い出すだけで、夏蓮は穴にでも埋まってしまいたくなる。

 元凶である皇子は腹を抱えて大爆笑していたが。


「私は面白かったがなぁ」


 くくく、と喉奥で笑う皇子に、夏蓮はこめかみに青筋を浮かばせる。


(誰のせいで……っ!!)


 そう言ってやりたい気持ちは山々なのだが、控えている女官たちにこれ以上心労をかけたくはないと必死に堪える。

 今でさえはらはらと心ならずといった様子の彼女たちだ。怒鳴りでもしようものなら、今度こそ倒れてしまうに違いない。


「殿下も、あまり調子に乗りませんよう。夏蓮様に全ての非があるわけではございませんよ」


 夏蓮の心を汲んでか、代わりに鳳泉がぴしゃりと諫言する。

 夏蓮の中で彼女への好感度が急上昇した。


「そうは言うがな、鳳泉。この私にこんな態度を取れるのは早々おらんぞ」

「そりゃ、曲がりなりにも皇子殿下ですものねぇ。睨まれたくなければ、当然媚びへつらうでしょうよ」

「夏蓮様っ」


 ふふんと得意気な様子の皇子にまたも腹の虫が癇癪かんしゃくを起こして、ぼそりと小声で毒づくが、間も無く鳳泉に叱られてしまう。

 鳳泉は一つ溜息を吐いて、目配せだけで他の女官たちを下がらせた。

 しっかりと扉が閉められるところまで見届けて、鳳泉はもう一度、今度は大きく溜息を吐いた。


「お二方のご事情は私も重々承知しておりますが、恐れながら、これはあんまりでございます」


 さすがにこれは見過ごせませんよ、とまなじりを険しくさせて小言を始めた鳳泉に、主人二人は揃って言葉を詰まらせた。

 似たもの夫婦、ではないが今の彼女には逆らい難い、逆らう気すら起きない迫力がある。しかも言うこと全てが正論であるから、余計に突き刺さるのだ。


「私どもの顔色を伺えとは申しません。ですが、ぞんざいに扱われることを許容するつもりもございませんよ」


 よろしいですね?

 問いかけながらも締め括りにまた一睨みされ、念押しで畳み掛けられてしまえば、最早是と答えるより他にあるはずがなかった。


 言いたいことだけ言うと、鳳泉は手本のような一礼をして、さっさと部屋を去って行った。

 ぱたんと扉の閉じる音がいやに響いた室内。

 取り残された二人は、お互いを横目に見合った。


「……美人を怒らせると怖いって、鳳泉のことなのかしら…」

「どうだかな……。しかしあそこまで飾らないといっそ小気味いいだろう」


 強気に言いはするものの、皇子の口元は引き攣っている。動揺は隠し切れていなかった。

 なんとも言えない沈黙が室内を占領する。

 夏蓮は立ち上がった。


「夏蓮?」

「お茶を淹れるだけです。疲れましたので」


 ふう、と息を抜いて陶器のぶつかり合う音を響かせる。茶釜には熱された湯がなみなみと入れられていた。茶の席にと準備してくれたものだろう。

 その僅かを茶杯に分け、指先だけで触れる。


「この温度なら白茶かしら」


 そう零して備え置かれた茶葉に手を伸ばす夏蓮を、皇子が不思議そうに見ていた。

 茶は飲むが、淹れるところを実際に見るのは、そういえば初めてかもしれない。

 そう思うとむくむくと好奇心が首をもたげだした。


「茶を淹れるのに温度が決まっているのか?」

「ええ。紅茶や青茶は沸騰した湯を使って、さっと香りと渋みを出すのです。この茶釜の湯はそれには足りないので白茶にして、ゆっくり蒸らして旨味を出すのです」


 他にも、茶葉によって道具も違うのだと語る夏蓮は楽しげだ。

 久々に手づから淹れることに、嫌な気分も浮ついていた。

 皇子が無言で眺めている中で、夏蓮はそつなく茶の用意を整えている。

 白茶ということで、使うのは蓋付き椀だ。

 椀に湯を張って温め、取り替えた湯で茶葉を蒸らす。

 あとは茶葉がある程度沈むのを待つだけだ。


「お茶請けはこれで我慢してくださいね」


 皇子は皿に盛って出された干果物を見た。

 杏、桃、山査子さんざし葡萄ぶどう。どれも国中でよく食されるものだが、宮中では市井ほどは見ない。おそらくは、彼女が実家から持ってきたものだろう。


「いいのか?」

「何の持て成しもしないとなると、また鳳泉に叱られそうですから」


 素直にどうぞとは言わず、自分も席に座り直して淹れたばかりの茶を啜る。悪くない出来だ。軽やかな口当たりと爽やかな甘みに心が安らぐ。干果物の甘酸っぱさともよく合う味わいだ。

 思ったのは夏蓮だけではないらしい。皇子も慎重に椀を啜ると、ほっと目元を和らげていた。


「さすがに宮城で使うものは違うのかしらねぇ」


 淹れ方を変えたわけでもないのに、今まで飲んだどのお茶よりも美味しい。

 伏せ目がちにはにかむ夏蓮を皇子は柔らかく細めた目で見て、もう一口、茶を啜った。

 そんな皇子の思いもよらない眼差しに、偶然目にしてしまった夏蓮は一気に顔が火照るのを感じた。


(な、なんて目で見てくるのよ……)


 間違いなく赤くなってしまっているだろう顔を少しでも冷まそうと手扇で風を送るが、焼け石に水。常より強い拍動を感じてしまう。


「夏蓮? どうした、顔が赤いが……」


 熱でもあるのかと卓越しに覗き込み伸ばしてくる手をあからさまに仰け反って避ける。

 空を切ったそれは不自然に止まった。

 悲しみに色を深める皇子の瞳に胸が苦しくて堪らなくなる。自分のせいだというのに泣きたい気持ちでいっぱいだった。


「っあ、ごめ……ごめんなさい、わたし………」

「いい。謝るな」


 固くなってしまった声に胸が締め付けられる。

 そんな顔してほしくないのに、弁明さえ思い浮かばない。謝ることさえ禁じられてしまった。


(怒らせた……ううん。きっと、傷つけた……)


 俯く夏蓮。皇子は何を言うこともなく、静かに茶を啜る音が室に響く。

 先程の比ではない息苦しい空間が形成されている。


(変なの……。わたし、どうしてこんなにも落ち込んでいるの……?)


 こんな人、大嫌いなのに。

 わたしが避けたから? それで、悲しませてしまったから?

 だから苦しいの?


 悩んでみても答えが出るはずもない。気分ばかりが沈んでしまって、吐く息にも重みが出る。


 黙り込む夏蓮を、皇子は無言のまま見つめていた。


 感情のわかりやすい娘だと思う。大人しい気質だと伝え聞いていたが、そんなことはないと知っていた。

 すぐに感情的になるし、案外子供っぽいところもある。怒る時は噴火という表現がしっくりくる激しい怒り方をする。

 それをどうして大人しいと言えるだろうか。


 もう一度、手を伸ばしてみる。

 今度は、気づいていないのか避けられることはなかった。

 一瞬、触れることを躊躇ためらった指先。丁寧に結い上げられ飾り立てられた髪をくしけずると、ほのかに花の香りがした。


「怖いか」


 その問いかけに夏蓮は小さく首を振る。

 怖くはない。ただどうしていいのかわからないだけで。

 まるで迷子の子供のような頼りない姿が男心を刺激するということを彼女は知らないのだろうか。

 悪戯に指先を動かして、さらりと流れ落ちた一房を耳にかける。その際にわざと耳の縁をなぞると、細い体躯が大仰なまでにびくついて、真っ赤に染まった顔は困惑を湛えていた。


 文句なり何なりを言いたいのだろうが、驚きすぎて声も出ず、口だけがぱくぱく動いている。

 戸惑うばかりの彼女に喉奥でくつりと笑って、皇子はすっかり温くなった茶を飲み干した。


「ああ、甘いな」


 僅かに掠れた色を含んだ声音。

 夏蓮の顔がさらに赤みを増した。


 空になった茶碗がことりと卓に戻される。

 とろりと糖蜜よりも甘い眼差しに、どっちがと口から出かけるのをすんでのところでなんとか堪えた。

 言ってしまえば相手の思う壺だと思った。……思ったのに、顔に熱が集まるのを止められない。


 皇子がまたも喉を鳴らす。くすりと零れ出た吐息がまた艶めいていた。

 ゆっくりと開かれていく唇の合間から垣間見える肉厚な赤にどきりとした。


「まったくーー……甘いばかりではないからやめられない」


 困ったものだと宣いながらも至極楽しげな皇子に、夏蓮は内心で天邪鬼あまのじゃくと悪態を吐いた。

 これもまた、口に出すことはしなかったが。


 夏蓮は溜息を吐いた。

 夏蓮の理解の範疇はんちゅうを裕に超えるこの人の言動を、予測しようとすることこそきっと間違いなのだ。抵抗するより享受した方が幾らかマシだ。


 人はそれを諦めと言う。


「…………お茶のおかわりはご入用ですか?」

「ああ、貰おうか」


 悪びれることのない応答に、夏蓮は無言で新しい茶の用意を手がけた。

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