第9話 望まなかった再会

 姚佳の苦手という言葉は事実だったらしい。

 いかにもぎこちない手付きで弦を爪弾いたかと思えば、今度は力任せに爪弾いたりする。見ていて少々気が落ち着かない。

 それでも懸命に取り組んで苦手を克服しようとする姿には好感が持てるし、ああでもない、こうでもないと試行錯誤している様は微笑ましかった。

 彼女が自分を慕っていることは、夏蓮の自惚れではない。

 だからこその熱意なのだ。


「ああ、ほら。また肩に力が入ってますよ。ここにはわたしとあなたしかいないのだから、そんなに緊張しないで」

「で、ですがっ、夏蓮様ぁ……」


 庇護欲をそそる声を出す姚佳に、仕方がないわねぇと苦笑が零れ出る。

 母も、こんな気持ちで手習いさせたのだろうか。


「根の詰めすぎも良くないわね。そろそろ休憩にしましょうか」

「! はい!」


 あっという間に疲れを吹き飛ばした顔に、またひとつ笑いが零れた。

 姚佳がしまったとあからさまに顔に出して、それにもまた肩が揺れる。


「もう、夏蓮様は意地悪ですわ…」


 そうとは口では言いながらも恥じらう姿は、どこから見ても美少女そのものである。

 こういう所作に異性は惹かれるのかしら、と夏蓮は共感したくなった。


「ごめんなさいね、あんまりにも素直で可愛らしいものだから、つい。ーーさあ、機嫌を治して? お茶の相手をしてくださいな」


 出がけに花媛が麻花マーホアを揚げると言っていたから、それを茶請けにしよう。

 そう話を持ちかければ、姚佳の目がきらりと輝いた。


 後宮の女官たちは皆、もしかしたら扇より重いものは持ったことがないのかもしれない、と思ってしまうほどにたおやかで、夏蓮より余程後宮に相応しい立ち居振る舞いをする。

 そんな彼女たちには、手づから包丁を握り料理することを趣味とする夏蓮はさぞや異端に映るのだろうと、他人事のように思っていた。

 けれど蓋を開けてみればそんなことはなく、むしろ夏蓮が料理の腕を振るうたび女官たちは喜び、美味しいとまで言ってくれた。

 そして打ち解けてみれば、花媛は本人曰く趣味らしいが菓子作りに長けていて、とても美しく美味しい菓子を作るのだと知った。


 料理には夏蓮に軍配が上がるのだが、こと菓子作りに関しては花媛が圧勝する。

 趣味が似ていることもあって、夏蓮の中で花媛は友人に近い位置付けだった。

 そんな彼女が作り出す菓子はどれも人気で、夏蓮も『第三皇子の妻』でなければ女官たちの争奪戦に参戦しているほどだ。


 そして、とりわけ人気が高いものが麻花である。


 麻花は本来小麦粉、水、砂糖、それから少量の塩を原材料とする素朴な揚げ菓子なのだが、花媛の作るそれは一味違う。中心に胡麻や胡桃などが練り込まれた芯となる生地があり、普通の物と比べて少し複雑になっているのだ。

 加えて、有りつけるのは彼女が気まぐれを起こした時だけだから、倍率はいっそう跳ね上がる。


 夏蓮のお茶の相手を引き受ければ、花媛の手製の菓子が無条件で食べられる。

 もちろんそれだけが目当てではないのだが、それも含めて夏蓮とのお茶会は姚佳にとって非常に魅力的だった。


「……もう揶揄からかったりなさいませんか?」

「もちろんよ、反省してるわ」

「なら、お相手を仰せつかります」


 お一人ではお寂しいでしょうから、と言い繕う姚佳に、ありがとうと返す。

 それから、一旦後宮に帰ろうと二人して四阿あずまやを少し出たところで、不意に夏蓮だけ、後ろから手を掴まれて強く引かれた。

 ぐらりと体が仰け反って、堪えきれずそのまま後ろに倒れこむ。

 硬い地面に背を叩きつけるかと思いきや、夏蓮の体はぽふんと軽い音をさせて弾力のある何かに受け止められた。


「こんなに細くて軽いのに甘味を好むのか?」


 女の体は不思議な造りをしているのかと呆れとも関心ともつかない声。

 嫌な予感に動きを固くしながらも頭上を見れば、昨晩別れたきりの皇子がいた。


「……何の御用ですか」


 いかにも嫌なものを見た、と昨夜と変わらず顔を顰める夏蓮を皇子がおかしいと笑う。

 唐突すぎる出来事に対応しきれず立ち尽くしていた姚佳は、しばらくしてはっと我に返ると慌てて跪拝した。

 こんな人に跪拝なんてしなくていい、そう口から出かかる言葉を夏蓮は苦渋に満ちた顔で堪えた。


 夏蓮とは裏腹に、皇子は実に愉快げに彼女を自身の腕の中に閉じ込めていた。四阿あずまやの柱に体を凭れさせて、夏蓮の腰に腕を巻きつけているものだから抵抗などできやしない。

 渋々と現状に甘んじる夏蓮に、皇子はそれがいいのだとより笑みを深めた。


「……御用がないのなら離してくださいませんか。わたしはこれから姚佳とお茶をするのですから」

「つれないことを言うな。より良い夫婦関係を築くためにも、茶は私と飲もう」


 名案だとでも言うような口ぶりをしているが、そんなこと溜まったものではない。

 せっかくの美味しいお茶と菓子を、どうして嫌いな男と供さなければならないのか。

 後宮での数少ない楽しみを邪魔しないでほしい。


 みるみる眉間に皺を寄せる夏蓮とは打って変わって、控えて話に聞き耳を立てていた姚佳は伏せていた顔をぱっと跳ね上げた。

 その面差しは喜色満面で、心なしか僅かに頬が上気している。黒曜の大きな瞳は期待に満ちていた。


「でしたら、すぐに知らせて参ります! 場所はこちらの四阿あずまやでよろしいでしょうか?」

「ちょっ! 姚佳、わたしは……」

「そうだな……景観もいい、ここにしようか」


 夏蓮が何かを言い切る前に皇子が遮った。

 皇子の言葉を真に受けた姚佳はますます興奮した様子で、「かしこまりました!」と一礼して風のように去って行く。

 礼儀作法を厳しく叩き込まれていながらも颯爽と駆け抜けていくその後ろ姿を見て、夏蓮はかっくりと肩を落とした。


「……あなた、何がしたいんですか……?」


 意図がさっぱり読めない、と早くも疲れきった声の夏蓮の頭を大きな手のひらがかいぐり撫でる。

 愛玩動物のような扱いに、夏蓮はさらに眉間の皺を深めた。


「良いではないか。私とお前は夫婦なのだから」

「さっきから夫婦夫婦って仰いますけれどね……後宮入りから数ヶ月、昨日初めて会ったっていうのに、夫婦も何もないでしょう」


 同じようなことを何度も言わせないでと不機嫌な夏蓮に、良いのか? と皇子は意味深な言葉を意味ありげな笑みを浮かべて口にした。

 顔は見えずとも声音はわかる。不穏な空気を纏うそれに夏蓮は僅かに身動いだ。


(な、何かしら……なんだかよくわからないけど、あの晩と同じような気配が……)


 とりあえず危険な気がする、と警戒するが、それを皇子はくすりと一笑した。


「そう警戒するなーーもっと苛めたくなるだろう?」


 低く、色めいた、甘い声。

 耳朶じだを掠めるように囁かれた低音に、一気に膝の力が抜けた。


「おっ、と……危ないな。なんだ、腰が抜けたのか?」


 随分初心な反応をしてくれる、と揶揄うように笑う皇子は言うまでもなく余裕綽々といった様子である。

 彼の指摘する通り腰が抜けてしまった夏蓮は怒ることもできず、逞しい腕に体を支えられながら必死に羞恥心と戦っている。

 図らずも、抱きつかれ抱きつき返すという構図が完成した。


(姚佳がいなくてよかった……)


 あの様子だと、きっと今の状態を見たらさらに興奮するだろう。想像に難く無いからこそ一際安堵した。


 抗うことも面倒になって、諦観の境地といったていで皇子の為すがままを受け入れる。

 代わりに口を開くこともめっきり減ったのだが、皇子はそれでも構わないらしい。ゆったりと夏蓮を抱きしめて、ゆらゆらと左右に揺れた。


(まったく、何がそんなに嬉しいんだか……)


 こんな、いかにも女らしい体つきをしているわけでもない体を抱きしめても、抱き心地など良いはずもないのに。

 内心では悪態をつく夏蓮も、しかし衣装越しに感じられる人肌の温かさは心地良いものと感じていた。緩やかな揺れもさながら揺り籠のようで落ち着く。

 まだ強すぎない日差しと吹き抜ける風は、荒んだ心に穏やかな安らぎをもたらしてくれた。


「……今日だけ、ですからね」


 こんな触れ合いを許容するのも、茶の席を共にするのも。明日からはまた、自分は彼を避けるのだ。

 そして彼もまた、自分を気に留めない気ままな日々に戻ればいい。


 夏蓮の言葉に、皇子は何も言わなかった。ただくすくすと笑うだけで揺れを止めることはない。

 夏蓮はまた一つ溜息を吐いた。

 この人といる時だけだ。こうも一喜一憂させられるのは。


(姚佳、早く戻ってきてくれないかしら……)


 さっき行ったばかりの自分付きの女官を早くも望む。自身と皇子との色恋に夢を見過ぎているきらいのある彼女だが、双方をよく知るからこそうまく緩衝材になってくれるはずだ。


「っきゃ……!?」


 突然、皇子が夏蓮を抱き上げた。

 咄嗟に彼の衣装を掴んで振り落とされる事態は免れたが、それでも心許ない。

 動くたびに大きく揺れるのが怖くて仕方がないのに、皇子は夏蓮が怯えるたび機嫌を良くしていくのだから大概な性格をしている。


 「で、殿下っ! 下ろして、怖いっ」


 素直に懇願しても、到底聞き入れてくれる様子はない。むしろわざと大きくしているのではないかと思えてしまうほどだ。

 僅かに滲む視界の端で捉えた風景の移り変わりが、皇子の向かう先が四阿の中であることを知らせてくれる。

 二人の体が中に入り切ってしばらくして、ようやく夏蓮は腰掛けに降ろされ解放された。

 揺らぐことのない、ということがこんなにも安心できるものだとは。

 ぐったりと背を預ける夏蓮を、皇子がしてやったりと笑った。


「あ、なたねぇ……っ!?」


 思い切り凄んで睨みつけてはみるものの、やはりというべきか皇子には何の効果もない。

 多少なりとも怯みでもしてくれればまだ可愛げがあるものを、なおも笑い続ける姿は悪戯に成功した子供のようだった。


「気まぐれも大概にしてください!」

「っくく……! なに、良いではないか。中々緊張感があったろう?」

 「中々、なんてものではありません! 本当に怖かったんですからね!」


 まだ言うかと顔を真っ赤にして怒る夏蓮を、皇子は軽快な様子で見つめていた。それがさらに彼女を焚きつける。

 夏蓮はいよいよ我慢ならず、華奢な体を小刻みに震わせ出した。


「い、加減にしなさいよ……」


 堪え、押し殺すような響きの声は低い。僅かに揺れてもいた。

 夏蓮の後ろ遠方では数人の女官たちが手に茶の用意を掲げてこの四阿へ向かってきている。その中で、先頭を歩いていた鳳泉が先触れに声をかけようと少しばかり足運びを早急にしたのだが、怒り心頭に発している彼女がそれに気づいている様子はない。


「お、おい……?」


 恐る恐るという皇子の掛けた声が、今度こそ夏蓮の導火線に火をつけた。


「失礼致し……」

「貴方なんてっ、貴方なんて大っ嫌いよーーーーっっ!!」


 鳳泉の声を遮って放たれた怒号に近い叫びは、晴れ渡る蒼空に響き渡った。

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