第3話 円夏蓮という人

「……僭越せんえつながら。あまり姚佳をからかわないでやってくださいませ。あれは色事に不慣れでございます」


 こほんと咳払いの後に釘を刺されて、夏蓮は苦く笑ってそれをごまかした。


 女性にとって、恋愛とは格好の話種である。


 それは異性を寄せ付けない後宮においては顕著なのだが、鳳泉はこの手の話は好まないらしい。それとも、居た堪れない姚佳を憐れんだのかもしれない。


「善処します」


 明言をしない主人に仕方ないと諦めつつ、鳳泉はちらりと卓上の茶器を見た。

 夏蓮の手許にはまだ半分ほど中身の残っている茶碗があり、それとは別にほとんど空の茶器がある。


「姚佳がおかわりを持ってきてくれたの。そうだ、もしよろしければ鳳泉がこれから相手をしてくれませんか?」


 伏せてあった茶器を手に取り注ごうと立ち上がる夏蓮に、鳳泉はぎょっとして慌ててその手を止めさせた。


「夏蓮様のお手を煩わせるなど、とんでもないことでございます。自分で致しますゆえ、どうぞそのままで」


 早口に固辞して、夏蓮の手からそれらを取り上げる。言葉通り自分で用意する鳳泉に、取り上げられてしまった本人は残念そうな顔をした。

 鳳泉に限ったことでなく、女官たちは皆そうなのである。夏蓮の細やかな願い事を叶えてくれるが、もてなしたいと思ってもそうはさせてくれない。

 ご正妃様にそのようなことを、と初めて招いた時には女官が卒倒しかけたほどだ。

 大した家の出でもない自分を穿った目で見ない彼女たちは非常に好ましいのだが、立場の差はどうにも煩わしく感じてしまう。


「正妃と言っても名ばかりなのだから、そんなに畏まらなくてもいいとおもうのだけれど……」

「いいえ、そうは参りません。夏蓮様は私どもに気安く接してくださいますが、貴女様は私たちがお世話申し上げる大切な主人なのですから」


 どうしてもだめだと言い切る筆頭女官に、そういうものなのかと夏蓮は不承不承にも頷いた。

 しつこく食い下がっては彼女達を困らせてしまう。そうなるのは本意ではないのだ。


 静かに卓に着いた鳳泉を見届けて、夏蓮は手の内の残りにまた口を付けた。少し温度の下がった茶は、その分甘みが増しているように感じる。


「そうだ。書庫の出入りが自由だと聞いたから、午後ひるすぎから行って来ようと思います」

「書庫、ですか? ……そうですね、それもよろしいかと思います。ですが彼処は朝廷の官吏も利用致しますから、お留まりになるのでしたら個室をご利用くださいまし」


 出入りが自由とはいえ、基本的に後宮に住まう者はその区域から出ない。秘密の園に咲く花は高嶺の花である。

 それを変な色目で見て、己の分際も弁えずに手を出そうとする者がいても不思議ではないのだ。

 夏蓮は鳳泉の忠告を真面目に受け止めた。


「鳳泉は、書庫を利用したことはありますか?」

「はい、何度か。物語や、詩集なども豊富にございましたから、きっと夏蓮様のお気に召す物が見つかることでしょう」


 楽しかったことを思い出す時の笑みを添えて教えられて、夏蓮の期待はますます高まった。

 生家にも数々の書物が所蔵されていたが、大半が政治に関するものだった。それらをつまらないと思ったことはないが、夏蓮の気分を高揚させるのはやはり物語である。情緒に浸るなら詩歌もいい。


 期待に胸を膨らませる年若い主人を、鳳泉は微笑ましく見ていた。


 何も知らされず、皇子に求められたがために後宮に召し上げられた彼女は、時折不満を零すことはあるけれど、理不尽なことを言い出したことはない。

 命令すらしないで、何かを言い付ける時は必ずお願いという形をとる。

 長くない間にも、彼女が心優しい性質であると鳳泉には確信が持てた。


「………後宮の暮らしは、いかがでしょうか」

「あら、姚佳にも同じことを聞かれましたよ。皆さんがとても良くしてくださるから、 毎日つつが無く過ごせてます。気にかけてくれて、ありがとう」


 嬉しそうに、それでいて少し照れたように微笑する主人に、それはようございましたと鳳泉は目元を和らげた。

 その言葉と表情には安堵が滲み出ていて、本当に良くしてもらっていると改めて感じる。


(こんなに優しい人たちを困らせるくらいなら、妻女を迎えるなんてしなければ良かったのに)


 無配慮な人なのねと、夏蓮は見も知らぬ夫にムッとして、頬を膨らませたくなる。

 コロコロと変わるその表情を、鳳泉は優しい目つきで見守っていた。


 鳳泉は、筆頭女官となるだけあって後宮勤めの期間も長い。行儀見習いとして上がってきた何処いずこかの姫君たちの教育を受け持ったことも数え切れないほどである。


 そんな彼女の眼鏡に適う姫君が、今までいなかったわけではない。

 そして、彼女たちに比べると、夏蓮は身分も、教養も、容姿とて見劣りする。

 筆頭とはいえ一女官でしかない自分と比較しても、それは変わらないだろう。


 夏蓮は、後宮で生き抜くには何もかもが平凡すぎるのだ。


 彼女には、この後宮での暮らしはきっと息苦しかろう、と立場も弁えず憐れんでしまうほどに。


「夏蓮様は、殿下をお恨みですか?」


 鳳泉は飾らずに尋ねた。

 女官の誰もが案じていたことを、そうでありながら憚って尋ねられずにいたことを口にする鳳泉に、夏蓮は何とも言えず見返した。


「……恨んでない、と言えば、それは嘘になりますね」


 やはりと鳳泉は柳眉を顰めた。

 当然だと思う。名指しも同然で召し上げておきながら、ただの一度もその妻に顔を出さない夫を、どうして恨まずにいられようか。


「ああ、でも、」


 気づいたように、夏蓮は言葉を続けた。


「恨んでいると言っても嘘になります」


 そこは誤解しないで、と小さく微笑む夏蓮を、鳳泉は戸惑いの色濃い目で見つめた。


「理由を、お尋ねしてもよろしゅうございますか」

「理由と言われても……。だって、会ったこともない人をどう嫌えと言うの?」


 きょとりとして言う夏蓮に、鳳泉は言葉を詰まらせた。

 時に人は、相手の為人ひととなりなど知らず、ただ耳にした噂のみを根拠として他者への評価を決める。

 夏蓮のもとに、皇子の風評が届いていないわけでもない。

 それでも、会ったこともないからと嫌いもせず、好みもしない姿勢に、鳳泉は目が覚めた心地がした。


「では、夏蓮様は殿下にお会いしたいとお思いですか?」

「いいえ、まったく」


 これにはすっぱりと小気味いいほどに言い切った夏蓮に、鳳泉は自分の耳を疑った。

 い、『いいえ、まったく』? ーーそれはつまり、会いたくないということで……-


「…………お嫌いでは、ないのですよね?」

「ええ。ですが、好いてもいません」


 そう言って、手許の茶を啜る。

 美味しいわねぇ、なんて呟きまでする夏蓮に、鳳泉はどう反応していいものかわからなかった。


 鳳泉には夏蓮という人がよくわからない。

 他の皇子たちの妻女とは違い自分たちにも親しく接するし、何事も命令をせず慎ましやかだ。

 他人の評価に自分の評価を重ねず、自分の目と耳で判断しようとする姿勢は好感が持てる。

 ……持てるのだが、それでは矛盾しているではないか。

 他人の評価を気にしないと言いながら、皇子に会いたくないとはどういうことだろう。


「殿下が私に会いにいらっしゃらないのは、殿下の意思によるものでしょう。でしたら、私からお会いしたいと思うことはありませんよ」


 鳳泉が疑問に思ったことは、本人から折良く答えを与えられた。

 安心していいのか、決めかねる答えではあったが。


(これは、手強いかもしれませんね……)


 鳳泉は内心で頬を引きつらせた。


 鳳泉のそんな心境など露知らず、夏蓮は今度は茶菓子に舌鼓を打っている。

 二品目の茶菓子は、餡の甘みが上品な最中だ。パリッとした皮の食感と香ばしい風味もまた美味である。

 それを堪能していると、ふと、あることに気がついた。


「そういえば、わたし、書庫の場所を知らないわ」


 防衛のためにも、城内の地図などおいそれとあるわけがない。城内の地図とは、すなわち警備配置の図に等しいからだ。

 だからあるとしても重要機密文書として然るべき場所に厳重に保管されているはずのものなのだ。


「困ったわねぇ」


 言いながら、全然そんな風には聞こえない呟きを、鳳泉は半ば呆れながら聞いていた。

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