第2話 女官との仲は良好です

 ーーしかし。後宮に上がりはしたものの、夏蓮はそれから今日に至るまでの二月半の間、第三皇子には一度として顔合わせをしたことが無かった。


 正妃として広く絢爛けんらんへやを与えられた。

 何人かの女官も付けられた。

 御歳二十になる第三皇子には一人の妾妃さえいない。夏蓮が来るまでお世話申し上げる主のいなかった後宮の女官たちは、諸手を挙げて彼女の輿入れを迎え入れてくれた。

 いがみ合う相手のいない後宮生活は思いの外過ごしやすく、悪くないかもと思い始めているが、嫁いだという事実が夏蓮を憂鬱にさせる。


 父は、嫌ならいつでも帰っておいでと言ってくれた。

 母も、遅れて帰ってきた兄もそう言ってくれた。


 しかし、会ったこともない人を嫌がることはどうにもできないではないか。

 訪ね来られても困るが、全く音沙汰無いのも困りものだ。

 だから今日も、夏蓮は溜息混じりに呟き繰り返すのだ。


「ああ……帰りたい………」


 呟いたところで、回廊からか細く陶器の触れ合う澄んだ音が聞こえてきて、だらしなく卓に突っ伏していた夏蓮は慌てて背筋を正した。


「夏蓮様、お茶と菓子のおかわりはいかがですか?」


 蕾が咲き綻ぶような笑みを浮かべて、鈴を転がしたような声で囀るのは、夏蓮付きの女官の一人で、名を姚佳ようかという。

 夏蓮と歳は変わらないが、小柄かつ華奢な体躯と垂れ目がちの顔貌かおかたちが、彼女を年齢よりやや幼く見せている。


「ありがとう、姚佳。ちょうど物足りないと思っていたの」


 助かりました、と砕けすぎず堅すぎずの絶妙な匙加減で対応して、嬉しそうにふんわりとはにかんだ彼女に口元を緩めた。


 後宮の女官には二種類がある。一つは、行儀見習いとして後宮に上がった、所謂いわゆる臨時採用の女官。もう一つは、行儀見習いを経て登用の試験に合格した、正式採用の女官だ。

 行儀見習いとしてなら敷居は低く、富豪の娘や下・中流貴族の娘が箔付けにすることが多い。

 けれど、正式採用の女官は難易度がまるで違う。家柄は当然として、世間一般の姫以上に高い教養と学識を求められるのだ。故に、中流貴族の中でもとりわけ高位の家柄の娘や上流貴族の末方の娘などでしか狭き門を突破できない。


 つまり、夏蓮と然程変わらない年端で見事女官となった彼女は言うまでもなく才媛なのだ。

 夏蓮よりも家格の高い出自だろうに、姚佳はそれらを鼻にかけることなく尽くしてくれている。


 そんな彼女に、夏蓮は尊敬の念さえ抱いていた。


「姚佳、少し時間はありますか? 一人では寂しいから、もし都合が着くなら招かれてほしいの」

「まあ。私がご相伴しょうばんにお与りしてもよろしいのですか?」

「ええ、もちろん」


 軽口のように言葉を交わす。

 それならお言葉に甘えまして、と姚佳は同じ卓に着いた。


 姚佳が持ってきたのは、先程まで夏蓮が飲んでいた物とはまた別の工芸茶だった。

 茶の上部に小花が咲いていた先の茶とはちがい、白磁の茶器の中で大振りの茶花が咲き誇っている。

 華やかな香りの茶にそっと口付けると、ほのかに甘い風味が口内を満たし、夏蓮はほっと肩の力を抜いた。


「後宮での暮らしは如何でしょうか」


 何かお困り事はございませんか、と尋ねる姚佳に、夏蓮は緩く首を振る。


「困ってることなんて、強いて言うならやることが無いことくらいね」


 夫君に仕えるでもなく、立場上女官たちの仕事を手伝うわけにもいかず。

 夏蓮は毎日を手持ち無沙汰に過ごしている。

 手慰みに琴を持ち出して奏でても、日がな一日弾いていれば飽きもする。気分を変えて琵琶や笛などにしてもみたが、これらも半月と保たなかった。

 あまり得意ではない刺繍に興じてみたりもしたが、五、六品を完成させる頃にはこれもまた飽きてしまった。


 退屈だと訴える主人を、それもそうだろうと姚佳は同情的に聞いていた。


「本当なら私たちがお相手させて頂くのですが……」

「皆が忙しいことは知っているもの。無理を強いるつもりはないわ」


 ごめんなさいね、と詫びる夏蓮に、姚佳は慌てて首を横に振った。


 第三皇子の後宮は、末の皇子ということもあって規模は兄皇子たちと比べて慎ましい。

 それに応じて女官の数も少ないのだが、女官には女官の仕事があるのだ。むしろ人手が少ないからこそ、一人当たりの仕事量は主人が三人いる皇太子の後宮よりもよほど多いのかもしれない。

 正妃付きとなった者でも、多少軽減されはするが仕事量は変わらないのだ。


 至らず申し訳ありません、としょんぼりする姚佳に、夏蓮は慌てて気にしないでと首を振った。


 姚佳を含め、彼女たちが忙しい中で自分に気を遣ってくれていることはよくわかっているし感謝もしている。

 だから本当に、決して彼女たちを困らせたいわけではないのだ。ただちょっと、不満が零れ出てしまっただけで。

 順序も無く弁解する夏蓮の必死な様子に、姚佳はやっと表情を和らげる。

 ほわりと心が綻ぶような微笑みに、夏蓮は落ち着きを取り戻した。

 と、その時だ。

 ふと、姚佳は思いついたようにぽふんと拍子を打った。


「夏蓮様は、書物などはお好きですか?」

「書物? そうねぇ、物語だとかなら好きだけれど……」


 夏蓮の答えに、「それはようございました」と姚佳は嬉しそうに笑んだ。


「後宮から少し離れているのですが、書庫に行かれてはいかがでしょう。小さな区画ですが物語も集められているのです」

「城の書庫なのに?」

「はい。いつの時代かのお妃様が望まれたのだそうです」


 区画設営の起源のおかげで妃妾も自由立ち入りを許されているらしい。

 詳しく話を聞いてみると、その場で読み耽るのも良し、室へ持ち帰って気ままに読むのも良し、となんとも夏蓮には嬉しい制度。

 これでまたしばらく暇潰しに困らないで済みそうだと、夏蓮は大いに喜んだ。


「それは良いことを聞いたわ。早速、午後ひるすぎにでも足を運んでみようかしら」


 教えてくれてありがとう、と礼を述べたところで、失礼致します、とまた一人別の女官が現れた。

 夏蓮や姚佳よりも幾つか年上の彼女は、名を鳳泉ほうせんという。この後宮の筆頭女官だ。

 鳳泉は姚佳に目を留めて、探しましたよ、と少し堅く口を開いた。


「ごめんなさい、姚佳を引き止めたのはわたしなの。彼女に非はありません」

「夏蓮様、……いえ、誤解をさせてしまい申し訳ありません。私が彼女を探していたのは、彼女に面会を希望する者が来ておりますゆえ」


 咎めるつもりはありません、と締めくくる鳳泉に夏蓮はほっとした。

 それから、面会? と珍しいことを繰り返した。


 後宮は男子禁制の女の園である。

 それは妃妾の有無に関わらない不文律なのだが、女官の中には行儀見習いとして後宮に上がる者も決して少なくはない。

 だから両者の合意を前提として、手続きさえすれば面会は可能なのだ。

 その手続きが一つならずあるので面倒に思う者がほとんどなのだが、それでも希望するということは、希望者は親類か、相手によほど好意を寄せている者かのどちらかに大別される。


 ちらりと姚佳の様子を伺えば、彼女は頬を薔薇色に染めて、恥ずかしそうに小柄な体をより縮こまらせていた。

 どうやら彼女も、相手を憎からず想っているらしい。


「そういうことなら、安心しました。姚佳、付き合ってくれてありがとう。あまりお待たせしてはお相手が可哀想ですから、早く行って差し上げて」

「夏蓮様っ」


 夏蓮の言葉にさらに顔を赤くして、姚佳は物言いたそうに主人を見た。じとりとした目で見られても、涙に潤んだ目では迫力も何もあったものではない。

 飄々として食えない彼女に悔しそうにしながら、姚佳は「失礼致します」と完璧な跪拝をして見せて、室を去っていった。

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