旦那様から逃げるだけの簡単なお仕事です!
藤野
第1話 夏蓮、後宮へ行く
ふかふかに蒸された白皮に齧り付くと、口一杯に広がる胡麻入り餡子の香ばしくも甘い風味。
目に楽しい工芸茶をそっと啜れば、爽やかな花の香りが口から鼻腔まで吹き抜けた。
蒸したての
窓の外に向ければ、丹精込めて手入れされた美しい
ほっと肩の力を抜いて、彼女はほう、と一つ息を吐いた。
「あぁ……
溜息混じりに呟いた彼女の名は
後宮入りしてからというもの、里下りを望まない日は一日たりともなかった。
別に、不遇を
なにせこの後宮には他に妾妃の一人もいないため、そもそも寵愛や権力を競う必要がないのだ。
だからというべきか、仕える女官たちとの関係も極めて良好。同性同士での人間関係には何の問題もありはしない。
だというのに、彼女が日々後宮を辞して生家へ帰ることを望んでいる理由は異性ーーつまり、後宮の主人である第三皇子にあった。
第三皇子、
なにせ夏蓮は、夫婦であるというのに彼とただ一度の面識も無いのだから。
ーーことの起こりは、初春の頃。
まだ後宮に上がる前のその日、夏蓮は生家
夏蓮は特別に楽器を好んでいるわけではない。それよりも料理をしている方が好きなのだが、だからといって己の責務を放棄するような性格はしていなかった。
というのも、円家は中流階級ではあるが、それなりに名の知られた貴族なのだ。最盛期には文には尚書を、武においては将軍さえ排出した家柄である。
そして、身分ある家の娘に生まれた以上、音楽をはじめ様々な教養を当然と求められる。
己が好き勝手して、誉ある家名や大切な家族の顔に泥を塗るわけにはいかないと、夏蓮は一種の使命感さえ感じ、琴の名手と名高い母に指南を受けていたのだ。
音楽には得手不得手があるというが、幸い夏蓮はこれを得手としていた。
幼い頃から聞かされた母の琴が好きで、自分でも弾いてみたいと思って始めたのだが、これがなかなかどうして興味深い。
弦の押さえ方、弾き方一つで様変わりする音色は夏蓮の好奇心や向上心を強く刺激した。
まだまだ母の琴には敵わないものの、練習の成果もあって、合奏できるほどに上達したと自負している。
だからその日も二人で甘い恋の曲を爪弾いていた。
その、最中のことだ。
不意に扉を叩く音が耳に届いて、二人の爪弾く手が止まる。
「夏蓮、少しいいかい」
ひょっこりと顔を覗かせたのは、父であり家長である
仕事においては即決即断、微笑む鬼神とさえ囁かれる彼は、私生活ではその限りではない。
他家では第二、第三の夫人を迎えている所も多いというのに、彼は唯一人を愛し、その間に授かった子女を慈しんでいる。
黎刻は母娘の睦まじい様子を見て嬉しそうに目を細め、話があるのだと部屋へ入ってきた。
「このような時間に、どうかなさいましたの?」
湖詠が、いつもであればまだ宮城に出仕しているはずの夫が家にいる理由を問う。職務に誠実な人柄をよく知っているからこそ、彼が仕事を放り出してまで帰宅するなど余程のことなのだろうと考えたのだ。
心配そうにする妻に、黎刻は答えにくそうに苦笑いした。
「どうにもただならない事態が発生してね」
言うわりには暢気な様子に、母娘は顔を見合わせた。
「どうなさったの?」
「実は……夏蓮の、後宮入りが決まったんだ」
第三皇子の、と末尾に付け加えられた一言に、夏蓮はきょとんと目を瞬かせ、湖詠はまあと上品に口元に手を当てた。
「こ、う宮……って後宮!? え、どうしてですか父様っ」
数拍遅れて意味を理解した夏蓮は悲鳴に近い声で父を問い詰めた。
夏蓮はあと数ヶ月もしないうちに十六になる。その年頃は婚姻の適齢期とされ、その頃には許婚の決まった者も少なくはない。
夏蓮とてそのことは知っていたし、貴族の姫として未婚のままというわけにはいかないことも理解していた。
だがしかし、それにしたって突然すぎる。見合い、百歩譲って婚約ならまだしも、まさか後宮入りが決まるとは思いもしなかった。
「花嫁修業に行儀見習いってことでは……」
「いいや、婚姻。結婚。ああ、妾妃としてではないから安心するといい」
「安心できるところがありませんがっ!?」
ほわほわと何を言うのだこの父は!
いきり立つ娘を、母がどうどうと押さえ宥めすかす。
冷静そうに見える湖詠も、あまりにも突然な娘の結婚に戸惑いを隠せないでいた。
円家は貴族ではあるが、今や目を引くような名門の家柄ではない。
今代当主である黎刻も不相応な出世欲を抱く人ではないから、外戚の地位を狙っての取り計らいとも考えられなかった。
そもそもなにより驚かされるのは、第三皇子とはいえ歴とした皇族の正妃の座に、たかが中流貴族の姫が就くということだ。
一般的には皇位継承権が低いとはいえ、皇族には違いないため、正妃として迎えられるならば大貴族とまでは言わずとも、もっと名の知られた貴族の姫が定石というもの。
これは異例の大抜擢と言っていい。
「
「それが、私にもよくわからなくてねぇ……」
「よくわからないのに嫁がされるんですか、わたしは」
堪らず恨み言を零した夏蓮に、黎刻は申し訳なさそうに後ろ頭を掻いた。
「本当に、いきなりのことだったんだよ」
というのも、小休憩に中庭を歩いていたら第三皇子と
そして跪拝しようとしたところで、「お前、たしか娘がいたな」と問いかけられたそうだ。
戸部侍郎とはいえ、正式な面会をしたことがあるわけでもないのに家族構成を言い当てられて、黎刻は当然驚いた。
何故知っているのか、どうしてそんなことを聞くのか。
不思議に思いながらも是と答えれば、次に振りかけられたのが「正妃に欲しい」という言葉だった。
「いま思い返しても、さっぱりわからないんだよなぁ」
ぼやく彼はどこまでも安穏としていた。
だが「わからない」と言いたいのはこちらだと、夏蓮はじくじく痛むこめかみに指を当てて思った。
「欲しいって言われたから嫁がせるって、わたしは犬猫か何かですか……?」
父親として、もうちょっと躊躇うなりしてほしいところである。
しかし黎刻はほけほけとして、外堀も埋められていたからとまた苦笑いするのだ。
いきなり娘を欲しいと言われて、休憩中ということもあり完全に素でぽかんとしてしまった黎刻に、皇子は「陛下のお許しも頂いている」と止めを刺したのだ。
皇子の思し召しに、皇帝の承知。その上、地位は正妃という破格の待遇。
断るという選択肢は、最初から与えられていなかったのだ。
そうして、夏蓮は一月の準備期間を経て、わけもわからぬまま
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