第4話 書庫での邂逅

 午の刻をいくらか過ぎた頃、夏蓮は鳳泉に連れられて書庫を訪れた。

 書庫は、夏蓮が想像した以上に広かった。自家の私書庫も規模としては小さくないはずなのだが、さすが宮城内のものとだけあって敷地も蔵書も桁違いなのだ。


「では、未の刻にお迎えに参ります」

「ありがとう、鳳泉。よろしくお願いしますね」


 一礼して後宮に戻っていく鳳泉の背を暫し見送り、夏蓮は改めて書庫に向き合う。


(当面の、と思ったけどそれどころじゃないわ。一ヶ月毎日通っても一棚終わるかどうか……)


 自身の背の丈より遥かに高くそびえ立つ書架に思わず呆然としてしまう。

 しかしそれも束の間のことで、こんなにたくさんの書物を読める機会など早々あるはずもないと、早速手近な物を手に取り、鳳泉に教えられていた通り個室へと向かって行った。


 個室の扉には、それぞれ違う花の描かれた札が下げられている。その裏にはその花の名が彫られており、絵の面が向いていれば空室、無地の面が向いていれば使用中を示しているそうだ。

 その中で、夏蓮は自身の名でもある蓮の部屋に入り、札を返した。

 個室には、机と椅子、それに仮眠室も兼ねているのかこじんまりとした寝台があるだけだ。

 広くはないが一人でいるには問題ない程度の部屋は、後宮で与えられた室よりよほど居心地が良く感じられた。


「借りて帰ってもいいと言っていたけど、荷物になるしできるだけここで読んでいった方がいいわよね……」


 仕事熱心な鳳泉は、間違いなく夏蓮が持ち帰る本を「お持ち致します」と取り上げてしまうだろう。

 万が一そうならなかったとしても女の手には二、三冊が手頃だろうし、それではすぐに読み終えてしまう。

 こうしてはいられないと、夏蓮は揚々と 一冊目を開いた。


 夏蓮は黙々と書物を読み進めた。速度はあまり早くはないが、それでも既に数回取り替えている。

 書庫の蔵書は、なるほど、確かに魅力的だった。物語だけでも歴史物、恋愛物、怪奇物と幅広い。

 それに加えて民間伝承の総括書や詩文もあって、到底夏蓮を飽きさせることはない。


 夏蓮は夢中で本のページめくっていた。

 ーーその時だ。


「ん? 誰だ、お前は」


 不意に、後ろから声がした。

 さらには腕が伸びてきて、夏蓮の手首を掴んできた。

 驚いて、椅子を跳ね除ける勢いで立ち上がる。

 椅子が相手に当たればよかったのにそうなることもなく、夏蓮は腰を机に押し付けられた。


 机と侵入者との狭間に捕らえられて、何事かと心臓が早鐘を打つ。


 侵入者は男だった。

 切れ長の目が涼やかな、精巧な造りをした顔の男。深く艶やかな黒の瞳が夏蓮を射抜いて逸らさない。


(ーー綺麗な、人……)


 思わず見惚れていると、男は不機嫌を隠しもせず今度は夏蓮を睨んだ。


「おい、答えろ。誰だお前は」

「わ、たしは……円夏蓮、です。この春に、第三皇子の後宮に上がった……」

「後宮に? ……お前が」


 男の顔が訝しげに顰められる。


「ああ、行儀見習いか」


 自身の推測を疑いもしない男の声音に、夏蓮は恥ずかしくなって俯いた。

 本来後宮に上がれるような容姿など持ち合わせていないと、自分自身で重々承知している。

 それを改めて、しかも出会ったばかりの人間から指摘されては良い気などするはずもなかった。


「あっ、貴方こそ何方様どちらさまですか? わたし、ちゃんと使用中に変えておいたはずですよ」


 開け放たれた扉に目を向けると、記憶に違わず無地の面が表向いている。それなのに押し入ってきたこの男は何者なのか。

 睨み上げる夏蓮に、男は面倒臭そうに顔を顰めた。


「しまったな……。すまない、私の確認が至らなかった。しかし、ここは普段私が使っているんだ。悪いが出て行ってもらえないか」

「は、あ?」


 尊大に言い放った男に、カチンとくるのは不思議なことではないだろう。

 呆れ切った声を上げた夏蓮に、しかし男はちっとも意に介さない。

 それがますます夏蓮の苛立ちを煽っていた。


「あ、なたねぇ……先に使ってるのは、わたしなのっ。貴方の常なんて知らないわよ!」


 きっと強く睨みつける夏蓮に、男も負けじと眦を険しくして言い返す。


「他の部屋を使えばいいことだろう」

「はぁっ? なんでわたしが。あなた、いったい何様のつもりなの!?」

「ーーお前こそ何様のつもりだ。行儀見習いが、一国の皇子に何という口を聞いている」


 厳しい眼差しとたもに投げつけられた言葉に、理解しきれず夏蓮は硬直した。

 ぱったり一言も発さなくなった夏蓮に、彼は煩わしそうに鼻を鳴らす。

 夏蓮は改めて男をまじまじと見直した。


 夜のように深く艶やかな髪と瞳。涼しげな目元とすっと通った鼻筋。僅かに日に焼けた肌は傷の一つもなく、健康的な印象を受ける。

 長い髪を束ねる髪紐は太く緻密に編み込まれ、緒の端に結びつけられた飾り玉は間違いなく本物の玉。身に纏う衣も上質な絹で、さりげなく施された意匠がより品の良さを際立たせている。そして、どうみても官服ではない。


 明らかに、文武百官にはできるはずもない装いだった。


「ほ、んとうに……皇子殿下……?」

「そうだと言っているだろう」

「……何人目の?」

「三人目だ」

「…………三人目?」

「三人目」


 妙な沈黙が二人を取り巻く。

 夏蓮は自身の許容範囲を超える情報量と突発的事態に目眩がした。なんだか頭も痛い。

 堪えきれず額に手を当てた夏蓮を、男は怪訝な顔で見下ろしていた。


 三人目の皇子殿下。第三皇子殿下。

 さて、自分の身分とは何だったか。記憶違いでなければ、第三皇子の正妃で、唯一の妃妾だ。

 それはつまり、この男の妻であるということで。自分は、この男に名指しも同然に後宮に召し上げられたわけで。


(ーーーーよし、逃げよう)


 決断した夏蓮の行動は迅速だった。

 机に置きっ放しにしていた書物を引っ掴み、抱え込む。そして相手の足を思いっきり踏んづけて拘束が緩んだ隙に突き飛ばすように相手を跳ね除けた。

 そのまま扉を蹴破らんばかりの勢いで蓮の個室から飛び出し、がむしゃらに走る。背後から叱責の声が響いたが、そんなものでは夏蓮を止めるなど不可能だった。

 今の夏蓮の頭の中には姫らしく、だとか、おしとやかに、だとかいう女の教えなど影も形も無い。

 その証拠に、裾が捲れ上がろうとも速度を落とす気配さえなかった。


 たとえ誰かにすれ違おうとも構うものか。今日いまこの時ばかりは礼儀作法もなんのその。三十六計逃げるにしかず。


 現状打開、これだけが彼女の思考回路を埋め尽くしている。


 だって、冗談じゃない。会いたくないと言ったばかりだというのに、よりにもよってこんな出逢い方はごめん被る。

 鳳泉に言った、「会ってみなければ嫌うこともできない」なんて言葉はただの建前だ。綺麗事だ。

 嫌いじゃないなんてもう言えない。言うつもりもない。

 だって、思いもしなかったのだ。


(あんな……あんな傲慢暴君が夫だなんてーー!!)


 絶対絶対、ぜぇったいに認めないっっ!!


 夏蓮は反抗心に燃えていた。

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