第7話 質疑応答

 ああ、頭が痛い。

 疼痛を訴えるこめかみを揉み解すように指を添える。

 けれど皇子は夏蓮のことなど意に介さず、目の前に並べられた料理たちを食べ進めている。


(美味しいご飯を食べてすっきりするはずだったのに……)


 諸悪の根源を前にして食べて、爽快気分になどなれるはずもない。

 けれどこのまま食べそびれるのもしゃくでしかなく、夏蓮は気が進まないまま箸を手に取った。


 夏蓮が作った物以外にも皿が追加されているので、今日の夕餉はいつもより輪をかけて豪勢である。


(うーん、さすが宮廷料理人。お野菜シャキシャキで美味しい……)


 野菜が足りない、という夏蓮の気にした点を料理人たちも気にしてくれたようで、献立に合うように野菜料理が追加されていた。


(ああ、もう。これでこの人さえいなかったら、気分良く眠れたのに……)


 そんなことを思いながらもしっかり甘味まで食べ終えた夏蓮は、食後の茶を啜っている。

 ちなみに本日の甘味はつるんと喉越しなめらかな杏仁豆腐だった。新鮮な果物がふんだんに盛り付けられた、目にも楽しい一品だった。


 さて、夏蓮と同じく食事を終えた皇子は、自分の後宮だというのに何が珍しいのか、きょろきょろと忙しなく視線を動かしていた。


「殿下、本当に何の御用でしょうか……」


 何かあるならさっさとそれを済ませてお帰りください。

 夏蓮の言外の主張も意に介さないで、皇子は寝台の上に腰を下ろした。

 そして、ぽつりと心底の声で呟いた。ーーわからないな、と。


「何故お前は私にそう当たる? お前は私の妻だろう」

「たしかにわたしはあなた様の妻ですが、恐れながら、指名も同然に召し上げておきながら数ヶ月顔も見せなかったような夫に尽くす気は、生憎、毛頭、これっぽっちも! ございません」


 ぴしゃりと容赦のない切り返しに、皇子は尚もいぶかった。

 夏蓮はほとほと呆れ果てた。この人はいったい、わたしを何だと思っているのだろう。


「怒っているのか?」

「いいえ、別に」

「なら、寂しかったのか」

「女官たちがとても良くしてくれましたから、特には」

「……なら、何故そうも不機嫌そうなのだ」

「不機嫌そう、ではなく不機嫌だからです」


 一問一答の応酬に、皇子はなんなんだと遣り切れなさに舌打ちした。

 夏蓮は溜息を吐いた。それは自分こそが言いたいことだった。


「御用が無いのでしたら、わたしは失礼致します」

「何? お前の部屋はここだろう。何処に行くと言うんだ」

「あなた様のいない所へ」


 冷淡に告げて、夏蓮はくるりときびすを返した。


 手を扉に伸ばす。

 僅かに引いたそれは、勢いよく叩きつけられた、自分よりも大きな手によって再度閉められた。

 背後から、耳元に吐息がかかる。生々しさを感じさせる至近距離に、夏蓮はかっと熱が上がるのを感じた。


「ーー何処に行く気だ」


 這うような低い声に身震いする。何かが押し殺されていると、それだけで理解した。


「……あ、なた様の、いない所へと……申しましたでしょう……」


 情けなく震える声。いつの間にか握られていた自分の手も、彼の手の中で小刻みに震えていた。


 背後で、溜息を吐く音がする。

 夏蓮は頭に血が上るのを感じた。

 狭い空間の中で勢いよく体を捩じって、向き合った相手の顔を強く睨みつける。


「いったい、何様のおつもりですか」


 夏蓮の硬い声に、皇子の目がつと細められる。夏蓮は気にせず言葉を続けた。


「貴方が、どういうつもりでわたしを正妃になんてしたのか知りませんけど……わたしは貴方の『お遊び』に付き合うつもりなんて全く、これっぽっちもありませんから」


 お生憎様、という夏蓮に皇子は何も応えない。それが余計、腹の虫を暴れさせる。


「わかったら退いてください。わたしは出て行きますので、」


 殿下はお好きに、と続くはずだった言葉は、反対側に叩きつけられたもう片方の手によって遮られた。続けざまに、足でも扉が押さえつけられる。

 より迫る相手に、怯えながらも夏蓮は気丈に振舞った。そうあろうと、努力した。


「な、何ですか……まだ何かあるとでも……っ?」


 言いたいことでもあるなら言いなさい、と身構える。

 今度は皇子が夏蓮を睨んだ。


「ーーそれが、お前の答えなのだな」


 皇子の声は一層低くなっていた。そのくせ、押し殺されている何かは強さを増しているらしい。

 剣呑な光を宿す瞳に、危険だと本能が警笛を鳴らした。


(わたしの答え?)


 そんなものは決まっている。挨拶はおろか顔を合わせる機会さえなく、会ったら会ったで詫びの一つも言われていない。これまで対面しなかった、できなかった理由も知らされていない。

 それで他にどんな答えを出せと言うのだ。


「……退いてください」

「断る」

「っいいから退いて!」


 腕を突っ張って押し退けようとしても、またしてもびくともしないで押さえ込まれる。

 それが無性に悔しくて悔しくて、ついには胸板を叩いてみるが効果はない。

 涙さえ滲ませ始めると、皇子は奈落よりも深い盛大な溜息を吐いた。


「いい、ここにいろ」

「だから、わたしはーー!」

「私が出て行く」


 自ら身を引いた皇子は、扉を開けて言葉通り室の外へと出た。


「今宵は、引き下がろう。邪魔をしたな」


 そう言い残して、扉は完全に閉じられた。


「なん、なのよ……」


 呆然と呟いた声は、ただ夏蓮だけが聞いていた。


 皇子の意図など、夏蓮にはわかるはずもなかった。

 退室間際、彼はわかっていないとでも言うような目を向けてきた。けれど、その読みが果たして正しいのかもわからない。

 そしてもし正しいのだとしても、では彼は何をわかっているというのだろう。


 夏蓮の疑問は尽きない。

 けれどただ悶々としていることもできず、叫び出したくてたまらない心境であった。


「夏蓮様、失礼致します」


 楚々と現れた鳳泉は、僅かに戸惑いを滲ませている。

 初めての主人の来訪かと思えば、夜を過ごすでもなく立ち去ったのだ。彼女の困惑は自然だろう。

 どう尋ねていいのかも決めかねる彼女に、「皇子ならもうお帰りになりました」と平静を心がけて伝える。

 鳳泉は静かに頷いた。


「ねえ、鳳泉。わたし、『わかっていない』のかしら」

「? 何をでございますか?」

「さぁ? わたしにもわからないわ」


 聞いておきながらわからないとは、どういうことだろう。

 鳳泉が戸惑いを見せたが、それでも心当たりはやはり思い浮かばないようで何かを言うことはなかった。


 夏蓮は溜息を吐いた。

 鳳泉さえもいなかったなら、寝台へ行くのも面倒がってこのまま卓に突っ伏し、そのまま夜を明かしていたかもしれない。明朝お越しに来る女官が仰天しそうだからしないけれど。


 夏蓮としては、空閨くうけいそしられようと構わない。正妃としての体裁を考えると多少は気にするべきなのだろうが、自分一人しかいない後宮では軽んじられることも無い。

 家族も、無体を強いられていないならと複雑ながらも胸を撫で下ろすだろう。


 ーーでも。


「ねぇ、鳳泉。あなたは……あなたたちは、やっぱり皇子とわたしには仲睦まじくいてほしいの?」

「それは、勿論でございます。ですが、無理してそうして頂く必要は皆目ございません」


 間を置かずに続けられた言葉に、夏蓮は目を向ける。不安そうな彼女を、鳳泉は優しく微笑んで対面した。


「女官はたしかに皇子を最優先致しますが、夏蓮様も主人であることに相違ございません。私たちは、お二人が少しでも過ごしやすいようにお仕え致します。ですから、夏蓮様が女官の顔色を伺う必要など無いのです」

「いい、の?」

「ええ、もちろんでございます」


 夏蓮の不安を拭い去るように鳳泉は頷いた。戸惑いはまだ消えないが、いくらか気分が軽くなった気がした。


「ありがとう、鳳泉」

「お礼には及びませんよ」


 鳳泉はにこりと微笑んで、僅かに乱れのある寝台を整える。


「さぁ、夜も大分更けました。今宵はもうこのままお眠りください、明日が辛くなってしまいますから」


 鳳泉に促されるまま、夏蓮は眠気で重だるくなっている体を動かす。

 きしりと鳴った音に、また意識が揺らいだ。目蓋が重い。


「あ、した……」

「はい?」

「あした、琴を弾きたいわ……。書庫も行きたい……」

「はい、かしこまりました」


 うとうととして呂律の覚束ない言葉にも、鳳泉は丁寧に受け答えする。

 柔らかな声音に余計睡魔が力を持つのを感じた。


「あの人は、きらい……けど、……がんばるから……」


 最後まで言い切れず、とうとう眠りに就いた夏蓮に、鳳泉はそっと苦笑して、上掛けを肩まで上げ、静かに部屋から退却した。

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