第13話 野良猫のような人
気まぐれも長くは続かないだろう。
そう思っていたのに、それからも皇子は思いついたように夏蓮の部屋に立ち寄っていくようになった。
愛されたい、と言っていた。それが夫婦というものだろう、と。
その言葉に嘘はないようで、物語に聞くような、
顔を見て、いくつか言葉を交わしては、満足したように帰っていく。
まるで野良猫のようだと夏蓮は思った。というか、実際に本人に直接言いもした。結果は、「猫もいいな」というわけのわからない回答だったけれど。
そして今日、花媛に菓子作りを教えてもらった夏蓮が厨房から戻ると、部屋では皇子が悠々と寛ぎ、姚佳に茶を供させていた。
「ああ、戻ったか」
遅かったな、とでも言うような口振りに、胸いっぱいに膨らんでいたはずの幸福感が萎む。
「殿下、どうしていらっしゃるのです」
「私の後宮で、私が何処にいようと問題はあるまい?」
「……質問を変えます。何の御用で、私の部屋へいらしたのですか」
「用がなければ来てはいけないのか?」
「…………あなた、答える気なんてまるでありませんね?」
「おお、よくわかったな」
偉い偉い、と幼子を褒めるような態度に、夏蓮が苛立ちのあまり震える。
遊ばれている。完全に、遊ばれている。
その証拠に、皇子は嫌みたらしい笑顔を浮かべている。
それがなおさら腹立たしくて堪らない。
普段なら我慢などせず一言「お引き取りください」と言い放つのだが、今日ばかりはそれをしない。いや、できない。
というのも、部屋の端には目を白黒させながらも必死に平静を保とうとしている女官がいるからだ。
たしか、春鈴といったか。二、三日前に行儀見習で後宮入りしたばかりの娘だ。
姚佳について指導を受けている時に皇子が来てしまったのだろう。
ただでさえ緊張しているのに、ここで夏蓮が気を荒だてては卒倒しかねない。
彼女のためにも、夏蓮は我慢を己に強いた。
どうせ今日も長居などせず早々に立ち去るのだろう、という腹づもりでもあった。
ーーのだが。
ふと、皇子のにやにや顔が消えた。
じっと注がれる視線の先は夏蓮ではなく、その手元だ。
「その皿は?」
「?
答えても、皇子の視線は菓子から外れない。
杏仁酥といえば、庶民もよく口にするありふれた焼き菓子だ。
さくさくとした軽い食感と甜杏仁のほのかな甘みが美味しい、老若男女に好まれる焼き菓子……なのだが、皇子の目は見たことのないものを見るときのようなそれだった。
「もしかして、食べたことないんですか?」
こくん。皇子が首肯する。
夏蓮は目を瞠った。
後宮に限らず、宮城には国中から美食や珍味が届けられている。市井では出回らない、耳にしたこともないような料理もここでは供される。
なのに、こんなどこにでもある焼き菓子を食べたことがないとは思わなかったのだ。
「美味いのか?」
「……ええ、美味しいですよ」
夏蓮が目配せすると、姚佳はその意を汲み取って小皿を二枚用意する。
それに杏仁酥を取り分けて、残りは姚佳に手渡した。
「お茶請けにどうぞ。我ながら良い出来なので、お裾分けです」
「夏蓮が焼いたのか?」
顔を跳ねあげた皇子と目が合う。
驚いた、と言葉より如実に語るその顔に、恥ずかしいような擽ったいような、不思議な気持ちになった。
「花媛、女官の一人に教わったのです。私も料理が趣味なのですが、ことお菓子作りに関しては彼女に敵いません」
「だが、これは夏蓮が焼いたのだろう?」
「え、ええ……」
頷くと、皇子は摘み上げた焼き菓子をまじまじと見つめた。
それから、大きな一口で一枚を口に収める。
詰め込みすぎてもごもごと動いていた口元が、堪らずといった風に笑みを浮かべた。
「美味いっ!」
弾けんばかりの笑顔と賛辞が、真っ直ぐに夏蓮の胸に響く。
「それは、ようございました」
自然と和らぐ、声音と表情。
夏蓮は初めて、皇子の前で心からの笑みを浮かべた。
目の当たりにした皇子が手を止めたことに気づかずに、夏蓮は杏仁酥を一枚取り上げ、小さな口で噛り付く。
さくっ、と小気味良い歯応えと、焼き菓子ならではの香ばしさ。ふわりと広がる素朴な甘みは、さっぱりとした茶と相性がいい。
じっくり味わいながら食べていると、皇子は早くも小皿を空にしてしまっていた。
名残惜しげに小皿に視線を落とす姿が憎めない。
(今日は、一時休戦ってところかしらね)
夏蓮は内心でそう決めて、傍に控える姚佳にまた目配せした。
視線だけで皇子の小皿を示せば、姚佳が嬉しそうに微笑して、楚々とした所作で杏仁酥を新しく取り分ける。
「良いのか?」
「ええ、どうぞ。でも、それで最後ですよ」
食べ過ぎて夕餉を残しては、料理人たちを悲しませてしまう。
それは駄目だ、と言い聞かせると、皇子は殊勝な顔で頷き、とっておきを楽しむような小さな一口で杏仁酥に噛り付いた。
それを見届けて、夏蓮も残りの杏仁酥に手をつける。
(たまには、こういうのも悪くないわね)
珍しく穏やかに茶の時間を楽しむ主人二人を、控える女官たちは温かな微笑を浮かべて見守っていた。
茶に満足して帰っていった皇子を見送って、扉を閉める。途端、室内にほっと安堵の息が響いた。音源は言わずもがな、春鈴である。
「まあ、春鈴」
「もっ、申し訳ございませんっ」
姚佳が窘めようと口を開くと、春鈴が慌てて頭を下げる。
一方で、夏蓮は仕方のないことだと気安く手を振り、姚佳を宥めた。
「どうせ前触れもなかったんでしょう? 春鈴が緊張するのも無理ないわ」
「ですが、夏蓮様……」
物申したそうな姚佳を、まあまあ、と再度宥める。
「突然のことに驚く気持ちも、わかるでしょう?」
指導者としての責任感を持って振る舞う姚佳の気持ちもわかるが、彼女とて初めての皇子との茶席の折には、行儀作法も何のそのとばかりに
まだ後宮に上がったばかりの春鈴が、突然の皇子の訪問に粗相をしなかっただけ及第点だろう。
匂わせた夏蓮の言葉の裏を汲み取って、姚佳が不承不承にも引き下がる。
それにありがとう、と微笑して、夏蓮は春鈴に目を向けた。
「でも、慣れて貰わなくては困ります。次は頑張って堪えてくださいね」
「はいっ」
頑張ります、と意気込みを見せる春鈴に、姚佳も優しく微笑んで「その意気です」と激励を贈る。
話がまとまったところで、夏蓮が一つ拍子を打って話題を変えた。
「さて。お菓子、少し減ってしまったけど、よかったら女官の皆で分けて。あ、もちろん春鈴にもね」
「へっ? わ、わたくしも、頂いてよろしいのですか……?」
「ご褒美、というわけではないけれど、気を張った分お腹も空くでしょう? 殿下のお墨付きだから、是非」
「っありがとうございます!」
勢いよく下げられた頭に、すかさず「礼が荒い」と姚佳から注意が飛ぶ。
良い子だけれど、なかなか大変そうだ。主に、指導する姚佳が。
目の前で開始された礼の指導を見守りながら、夏蓮は緩やかに微笑した。
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