第12話 驚くしかない
「お……皇子? あなた、ご自分がなにを仰っているのか、理解しておられますか……?」
頬が引き攣る。声がひっくり返っていることも重々承知しているが、今はそんなことを気にしている時ではなかった。
わからないわからないと散々思っていたが、これは明らかにおかしい。頭を叩いたということはないし、見ている限りぶつけたということもない。
そうなると、もしや熱でもあるのだろうか。
ああ、きっとそうだ。そうに違いない。ならば鳳泉に言って医師を呼ばなければ。
あれもこれもが瞬時に夏蓮の頭の中を駆け巡った。
「まさか体調を崩しておられたとは気づきませんでした。すぐに医師を呼ばせますので」
「? 私は至って健康だが」
「いやいやいや、そんなまさか。ああ、それとも疲れていらっしゃるとか? お茶もっと飲みます?」
「……茶はもらうが疲れてもいないからな」
ずいっと茶碗を押し出されたので反射的に受け取ったが、すぐには動作に繋げられない。
夏蓮は、自分が咄嗟の事態に頗る弱いらしいということを今初めて知った。
青天の霹靂とはまさにこのことを言うのだろう。驚くという反応さえできなくなるほどのことを口走ったのだ。
後も先も考えず、首だけを動かして皇子を伺い見る。
皇子は変わらずむすっと仏頂面をしているが、その頬はほんのりと朱が指している。
なんだ、とぼそぼそ悪態をつく彼を、信じられないものを見るような目で見た。
「あなた……わたしに愛されたいの?」
仮にも皇族だからと言い聞かせて外さないように心がけていた敬語も、今ばかりは頭から吹っ飛んだ。
入り込んだ情報が重すぎて受容できない。言葉を飾ることも忘れて口にして、しまったと焦った。
しかし皇子は気にしていない様子でふんと鼻を鳴らす。
「妻に嫌われたがる夫というのは聞いたことがないが。それともお前の家ではそうなのか?」
「そんな話は私も聞いたことありませんし、両親とも未だに新婚気分ですけれども。そうではなくてですね、わたし、妻と言っても名ばかりのものでしょう?」
皮肉にも真顔で返す。怒れば良かったと気づいたのは言い切った後だった。
しかし、名実ともにそうなるつもりはないが、そんな伴侶の愛情でも欲しいと思うのだろうか。
不思議がる夏蓮に皇子は頭が痛そうな素振りを見せた。 顔には隠しきれない疲労の色が滲み出ていて、ゆるゆると無意識にか首を振る姿が妙に哀愁を誘う。
「…………もういい。この話は止めだ」
「はぁ」
自分から言い出したくせにとむっとするが、こんな言い合いなど続けたところで何の身にもならないことはわかりきっていた。
話も終わったのだし、もう離れても良いだろう。
そう思って離せと合図するが、皇子はすべて無視して夏蓮を腕の中に捕らえ続ける。
「殿下、離してください」
「嫌だ」
間髪入れずに断られて、またもむっとする。
嫌だって、どうしてだ。理由を是非とも伺いたい。
無言で睨みつけて訴えてみても素知らぬ顔で流されてしまったが。
本当に、このわがまま皇子には手が焼ける。末っ子だからと甘やかされてきたのだろうか。
「殿下」
「嫌だと言っている」
「なら、お茶はもうよろしいのですね?」
言った瞬間、皇子の肩が揺れた。どうやらそれは欲しいらしい。
しかし、そんなにも離したくないのか唸るばかりで、今の心境といったら、どう表現していいのかわからなかった。
(暴言吐いたり怒鳴りつけたり、我ながら嫌われてもしょうがないと思うんだけど……)
気のせいでなければ、それどころか懐かれているような気がする。
自分などよりよほど大きく逞しい体に被さる身動きはままならないが、潰さないようにと配慮はしてくれているようで辛くはない。
本当に、体ばかりが大きな生意気な子供である。
きっと、もう釜の湯は冷めきってしまっているだろう。それには十分な時間がもう過ぎている。
早いもので、もうすぐ昼餉時になろうとしていた。
「……もう、お茶はご飯の時でいいですか?」
遠からず配膳に来るだろう女官に言い付ければ済むことだ。
何の気も無しにそう提案すると、皇子がばっと顔を上げた。その顔は信じられないものを見る時のようで、しかしそれ以上に喜びが溢れている。
「夫婦で食事か」
「ああ……はい、そうですねー」
期待に胸を踊らせる姿に、そんなつもりでは毛頭ないとは言い出せなかった。
もういいと投げやりに答えたら思った以上になってしまったが、皇子はすっかり舞い上がっていて気づいていない。
(まったく、ずるい人だわ)
呆れ返るが、仕方無しにとはいえ受け容れる自分が一番信じられなかった。単純にも程があるだろうに。
「ほら、そろそろ鳳泉たちが来ちゃいますから離してください。じゃないと一緒にご飯もお茶も無しにしますよ!」
どうせ聞き入れられはしないだろうと冗談半分に言ってみると、皇子は慌てて腕を開いた。
急に体を支えるものが無くなって、床に転がり落ちそうになるのをしがみつくことで回避する。
「失礼致します。お食事のご用意がーーあら」
折がいいのか悪いのか、予想通り声を掛けに来た鳳泉が入室する。
ばっちりと音がしそうなほどかちあった視線。
鳳泉の目はいつもより大きく、丸かった。
「大変失礼致しました。また数刻後にお呼びに参りますので、どうぞごゆるりと……」
「待って鳳泉! お願いですから待ってください! 誤解っ、誤解ですから!」
普段通りを装って辞去を申し出る鳳泉を必死で呼び止める。一つならず聞こえた不穏な意味を孕む言葉には今は目を瞑ろう。
そのついでに、耳元で囁かれた「誤解ではないのに」というぼやきも聞こえなかったことにした。
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