第16話 晴れない心模様

 さて。夏蓮の予想は大きく外れて、皇子の訪いは頻度を上げ、しかも思っていたよりもはるかに長く継続されていた。朝に夕にと夏蓮の部屋を訪ねるようになったのだ。

 後宮入り当初の不問が嘘のように足繁く通う姿に、女官たちが朗報も早かろうと今から待ちわびている。

 実際は、彼女たちが期待することなど全く無いのだが、女官たちの勘違いも無理からぬことではあった。

 なにせ皇子は、何故か訪ねて来ると必ず人払いをするようになったのだ。

 当初はそれに酷く警戒したものだが、そんなものは一月ともたなかった。


 けれど不思議に思うのは、新しく誰かが輿入れする、という話をちっとも耳にしないことだ。

 女官たちに聞いても見たのだが、彼女たちは一様に微笑ましげにして「何もご心配召されるようなことはございませんよ」と口にした。

 移り気を心配したと勘違いされたようで、何とも居心地の悪い思いをしたことはまだ当分忘れられそうにない。


(ああもう、いったい何なのかしら)


 出会う前の方がよほど心が晴れ晴れとしていただろう。こんな矛盾を胸に抱くことがなかったのだから。


 夏蓮の室を訪ね、人払いをした後の皇子の行動は、最早定型化していると言ってもいい。

 食事や茶を共にするか、時折碁に興じることもあるがそれは本当に稀だった。

 気まぐれに振舞っては、夜が更けた頃に帰っていく。ねやを共に過ごすどころか、触れてくることさえ滅多に無い。

 野良猫が餌を求めてやってくるそれと大差はないことだ。


 なのに、夏蓮は鬱憤が溜まっていた。自分自身でもどうしてかわからないほど、この頃は気が昂ぶって仕方がないのだ。


 料理に打ち込めば多少はすっきりするのだが、すぐにまたむしゃくしゃとして振り出しに戻る。

 傍近い女官たちに当たり散らすなどできるはずもなく、苛立ちは自然と茶を共にするだけの皇子に向く。

 そんな毎日が、もう一月近く続いているのだ。

 ふとした瞬間、皇子の言動ばかりがぐるぐると頭の中を往来する。

 言い尽くせない苛立ちをそのままに目の前の弦を爪弾くと、加減をぬかって、琴が歪な音を立てた。


「夏蓮様、どうかなさいましたか? なにやらご気分が優れないご様子ですが」


 傍に座る姚香に控えめに問われ、夏蓮はようやく我に帰った。

 乱暴に扱ってしまった琴の弦に損なった様子がないことを確認して安堵する。

 しかしそれも束の間のことで、回廊をねり歩く女官の笑い声一つ聞くだけでわけもなく緊張してしまった。

 一瞬にして表情を強張らせた主人を、姚佳は気の毒に思う。


「私、少々控えるよう申して参りますわ」

「いいの。わたしが変に意識してしまっているだけなのだから」


 立ち上がりかけた彼女をそっと制して琴に目を落とす。無作為に爪で引っ掻くと、もの悲しげな音がした。

 不相応に華やかな袖に、自分が一層惨めに思えた。


「ごめんなさい、姚佳。今日はここまでにさせてもらえる?」


 これ以上何かをする気にはなれなくて、勝手で申し訳ないけれど姚佳に断りを入れる。

 姚佳は気遣わしげに言葉を模索していたが、何も言わず頷いてくれた。


 琴を姚佳に下げ渡して、手の筋をさするようにほぐす。

 視界の端では春鈴が覚束ない様子で茶の支度をしていた。

 この頃は春鈴がよく茶を淹れてくれる。この一ヶ月はいつも彼女が給仕をしてくれているのだが、まだ緊張してしまうらしい。今も、小刻みに震える手で茶葉を入れていた。

 その様子を、ぼんやりと夏蓮は見つめた。


(可愛い子……)


 頑張り屋で、素直で。親からは期待されていないと言っていたけれど、夏蓮の目にはみんなに愛される子としか思えない。

 けれど、そう思うとともに、ある思いが夏蓮の胸に立ち込めた。


 いつからだろう。ああ、きっと、皇子が通ってくるようになってからだ。

 彼女だけではない。鳳泉にも姚佳にも、他の誰に対しても感じるようになってしまった蟠り。

 羨望なんて言葉では足りないくらいどろどろとした心のおりが、夏蓮に重くのしかかってくるのだ。


「夏蓮」


 物思いに耽りかけた時、低い声に呼ばれて顔を上げた。

 その先には、暑いのか首元を大胆に寛げた皇子の姿。

 室内の女官たちが楚々として頭を垂れた。


「……またいらしたのですか」


 無意識に低くなった声。我ながら可愛げのかけらもない。

 皇子は何か思うところでもあったのか器用に片方だけ眉を上げた。

 彼がすっと手を振るだけで、女官たちは彼の意を汲んで辞していく。

 春鈴も、慌てて茶の支度を整えてそれに倣った。いや、倣おうとした。


 そうするより前に、皇子が手を伸ばした。夏蓮にではない。春鈴に向けてだった。

 男らしい太く長い指が、よく手入れされた艶やかな黒髪に伸びていく。それは見せつけるようにゆっくりと動いてーー……


「夏蓮様っ!?」


 悲鳴じみた声に呼ばれて、はっと我に返った。声を上げたのは姚佳だった。

 つい先ほどまで可愛らしくはにかんでいた彼女は、冷水でも浴びたかのように青ざめて震えている。


 その隣で、皇子は呆然としていた。ぽたぽたと彼の髪から露のようなものが滴っている。身に纏う衣も何故か濡れていた。


 夏蓮の手には、空になった茶碗が握られていた。


「あ……」


 夏蓮はようやく現状を理解した。

 強すぎる動揺が襲いかかる。震えだした足は椅子を跳ね除けて、気づけば裾を蹴上げて駆け出していた。

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