第17話 暴走と逆鱗

 どれくらい走り続けただろう。飛び込んだ先で夏蓮は胸を喘がせた。上がりきった息は熱が籠もっているのに、指先は氷のように冷えきっていた。

 しゃがみこんでぎゅうっと自分を抱きしめる。擬似的な温もりに、一気に目頭が熱くなった。


(なにしてるのよ……!)


 とんでもないことをしてしまった。それだけでは飽き足らず、謝りもせずに逃げ出して。

 挙げ句の果てには泣き出しているのだから、馬鹿としか言いようがない。


 今頃、皇子は怒り狂っているだろう。きっと許してもらえない。もう自分に会いに来てくれることもなくなるだろう。

 そう思うとさらに涙が勢いを増した。頬を伝って落ちた雫が砕けていく。胸が苦しくて仕方がなかった。


 今から引き返して謝らなければと思うのに、体は動こうともしてくれない。泣くしかできない自分が情けなくて仕方がなかった。

 こんな自分を、夏蓮は知らなかった。いつから自分はこんなにも醜くなってしまったのだろうと、自分が嫌で堪らない。


「もうやだ……」


 そう呟いた時だ。


「見つけた」


 後ろから声がして、振り返る間もなく抱きしめられる。

 それが誰かなどわかりきっていた。


「まさかと思ったが、本当にここにいるとは思わなかったな」


 穏やかな声には僅かに喜色が浮かんでいる。

 怒鳴られるか、無視されるか。どちらかだと思っていたのに、どうして自分は抱きしめられているのだろう。


「なんで……」

「何がだ?」

「なんで、怒らないの……」


 あんなことされて、どうしてそんなにいつも通りでいられるの。どうして優しく抱きしめるの。

 夏蓮にはまったくわからなかった。

 頭の中に居座る皇子。散らつく、天女の如き媺苑。


 ああ、もう、だめだ。

 自分の心だというのに、乱れて暴れて抑えられない。


 抱きしめてくる腕を外そうと暴れる。突然の抵抗に驚いていたけれど、決して夏蓮を話すことはなかった。

 どうした、何があったと会話を試みる皇子に、夏蓮はきつい眼差しを向ける。


「怒ればいいじゃない! それとも同情? 追い出す前に、最後の情けでもかけてやろうとでも言うつもりなの?」

「夏蓮、少し落ち着……」

「余計なお世話なのよ!!」


 酷いことを言っていると自分でもわかっている。それでも動き出した口は止まってくれなかった。

 ああ、今度こそ呆れられた。自分で自分が嫌になる。こんなはずじゃなかったのに。これ以上醜くなりたくないのに。

 本当に言わなくてはいけない言葉は別にあるのに、どうして言えないのだろう。


「あなたが言わないなら、わたしから言うわ。出て行きます、だから離して」


 心にもなく吐き出した言葉は、氷よりも冷たく固く。

 静まり返った部屋に大きく響き渡った。


 皇子の腕が苦しいほどきつく締め付ける。力づくで向き直されて、強引に掴まれた肩が痛かった。


「夏蓮、いいから落ち着け。話をしよう。こればかりは、さすがに私も怒るぞ」


 強い眼差しに気圧されて反射的に口を閉ざす。凄まじい剣幕に体が跳ねた。

 炎より苛烈な眼差しが夏蓮を射抜いている。


「は、離し……」

「夏蓮。ーー私は気が長くない」


 皇子の、全ての感情が抜け落ちたような恐ろしい顔が目の前にあった。押し返そうとした手が容易く捕らえられる。体が竦んで、逃げるように逸らした顔も、顎に手をかけられて引き戻された。


「お前が忘れていようが、素気無くされようが、茶を引っ掛けられたって、そんなことは気にしない。だがな、私から離れるというなら、それだけは許さない」

「っ、は……? なに、を……」


 忘れているって何。許さないって何。

 混乱を極めた頭は疑問だけを渦巻いて、答えを探させてはくれない。


「私なりに譲歩して、待ってきたつもりだったのだがな。逆効果だったか」


 唸るように告げられて体の震えが増す。それを見て、皇子が鼻で笑った。息が唇に触れた。

 指先に力が込められて顔が固定される。すると、皇子はゆっくりと顔を近づけてきた。


「でん、殿下……っ」

「黙れ」


 皇子は低い声で囁くと、強引に唇を重ねた。

 夏蓮の目が大きく見開かれる。抵抗しようとしても捕らえられた腕では叶わない。いつの間にか後頭部に回された手のせいで身動ぐことさえままならなかった。


 苦しい。苦しい。

 呼吸さえすべて奪われそうな感覚。生まれて初めての感覚は、恐怖と戸惑いだけを夏蓮に植え付けた。

 悲鳴を上げることも許されず、その声はすべて皇子が飲み込んでしまう。


 酷い仕打ちだと思った。なにもここまですることはない、と。

 この人はどれだけ弄べば気が済むのかと、悔し涙が浮かんだ。


 重ねた時とは反対に、ゆっくりと皇子が離れていく。


 ーーパンッ!!


 乾いた音が室に大きく響いた。皇子の頬が赤みを帯びていく。

 夏蓮はじんじんと疼痛を訴える掌を包み、数歩分の距離を置いた。

 これほど激しているというのに、自分を見る皇子の目は落ち着いていて、余計神経を逆撫でされる。


「どれだけ、わたしを惨めにしたら気が済むの」


 こんな仕打ち、いくら皇子といえども許されない。許されていいはずがない。

 夏蓮は怒りに震える声で言い放った。


「遊び相手が欲しいなら別の方を探してください。あなたなら、女人など選り取り見取りでしょう」

「何?」


 皇子は顔を厳しく顰めた。威圧するようなそれに、途端萎縮いしゅくしてくる気持ちを奮い立たせて受け止める。

 もう歯止めをかけることさえ頭になかった。


「わたしは、これから後宮を辞させて頂きます。さようなら、最低最悪な背君だんなさま


 初めて口にした二人の関係性は、恐ろしく冷淡なものだった。

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