第25話 錯綜

 愛してる、と。

 彼は間違いなくそういった。夢だろうかと何度となく思った。信じられないという気持ちと、信じたいという気持が鬩ぎ合って、時間ばかりが過ぎていく。

 はっと我に返った時には、朝日が昇っていた。


 彼は、今朝も室へ渡るだろうか。渡ってくれるだろうか。


 そんな思いが胸を占める。

 現金なものだ。でも、それでも彼の訪ないが待ち遠しかった。


 聞き慣れた解錠の音が扉の隙間から零れて響く。


 ああ、来てくれたのか。


 ほっとしたのは束の間のこと。次いで現れた人影に、夏蓮はひどく落胆した。不思議と、驚くことはなかった。


「おはようございます、夏蓮様」

「姚佳……。おはようございます」


 変わらない美しい礼を伴った挨拶に、夏蓮もやや遅れて同じく挨拶を返す。

 気落ちした様子の主人を気遣いながらも、指摘することはなく姚佳は朝餉の支度に取りかかった。


「今日は、姚佳なのね」

「はい。……その方がよいだろう、と」


 それが誰の言かは聞かずともわかった。

 胸が締め付けられるように痛む。

 これが嫌味や当て付けだったなら、こんな思いもしなかったのだろうか。


「恐れながら……夏蓮様、どうしても、無理でしょうか」

「姚佳……?」


 懇願するように問いかける姚佳に戸惑う。彼女は苦しげに愛らしい顔を悩ませて、夏蓮様、と縋るようにまた呼んだ。


「突然のことばかりです。夏蓮様が受け止めきれないのは、わたくしにもわかります。ですが、少しだけ……ほんの少しで良いのです。せめて、あの方のお気持ちを疑うことだけはやめて差し上げてくださいませ………」

「姚佳、待って……いったい何を、……」

「殿下は本当に、夏蓮様のことを愛しておられます。わたくしどもを遠ざけるのも、殿下の愛ゆえのことなのです。ですからどうか、それだけは信じて差し上げてください……っ」


 夏蓮は息を呑んだ。

 姚佳は気がはやっているのか矢継ぎ早に、彼が如何に夏蓮を大切に想っているのかを切々と語りだした。

 彼女の口が語り紡ぐ数々は、夏蓮が知らないことばかりで。


「どうかお願いいたします。御心さえ疑われたままでは、殿下が浮かばれません…!」


 ついには涙を溢れさせて、彼女は何度でも「お願いいたします」と繰り返す。


「待って、待ってよ――浮かばれないって、何?」


 びくりと姚佳の体が震える。しまったと顔を青ざめさせる彼女に、とてつもなく嫌な予感がした。


「答えて、姚佳。今、何が起こっているの」

「あっ、わ、わたくしは……」

「答えなさい、姚佳!」


 夏蓮の一喝に、姚佳はことさらに大きく震えだした。


「で、殿下は……」


 わなないて思うように動かない唇で、なんとか言葉を絞り出す。じれったい速度で動く唇と震えた声に、夏蓮は目を見開いた。


「ですから、……っ夏蓮様!?」


 夏蓮は、気づけば扉へ駆け出していた。

 夏蓮の読んだ通り、扉への施錠はされていなかった。重厚な扉に体当たりするように押し開いて、開いた隙間に体を滑り込ませて免れた。


 絡みつく裾の煩わしさに苛立ちながら回廊を駆ける。


 久しぶりに顔を合わせた女官たちには目もくれず先を急ぐ姿は彼女たちを驚かせ、焦らせた。


「夏蓮様! なりません、どうか室へお戻りください!」

「っ誰か! 誰か夏蓮様をお止めしてっ!」


 なりふり構わず騒ぐ女官達の声を背に聞きながら足を急かす。自分はこうも早く駆けられたのかと思ったのは一瞬だけだった。


 もっと、もっと早く。こんなにゆっくりしている暇はない。


 しかし運動に慣れていない体はすぐに疲労を訴え、かせのように四肢にまとわりついた。

 ひとつだけが、今の夏蓮を突き動かしていた。





 ❀ ❀ ❀ ❀ ❀






「――――こうして、お会いするのはどれほどぶりでございましょうな」


 目の前の壮年の男がたっぷりと蓄えた髭を撫でつける。その最中に「随分とご多忙なようで……」と言われても、皇子は口を開こうとはしなかった。

 誤魔化すように茶を含んで、間を置かずに後悔した。

 矜持にかけて平静を装い、もう口をつけまいと少し離れたところに椀を置いた。


「円妃に、ひどくご執心だとか」


 もったいぶった言い方に、皇子ははきつい眼差しを向ける。


「それがどうした」


 低い声音にも男は飄々ひょうひょうとしている。そのくせ口先では「仲睦まじい様子でなにより」などとうそぶくものだから、皇子にはいっそう気に食わなかった。


「円妃が後宮にお入りになってから、そろそろ半年が経ちますな」


 格子に切り取られた庭の景色を眺めて男が呟く。男ののどやかな口調にも、清牙が気を緩めることはない。どころかさらに張りつめさせて、警戒心をあらわにしていた。


「何が言いたい」


 円妃に何か文句でもあるのかときつく問えば、男は「いやいや」と笑って言った。


「いやなに、それほどのご寵愛ぶりでしたらもうそろそろ吉報が届いてもおかしくないでしょうに、待てど暮らせど一向にございませんからな。――よもや、と……」


 意図的に途切れさせた言葉に、皇子は男を睥睨へいげいした。

 皇子の蔑視を受けようと微塵も動じない男は、ことさらににっこりと、下卑た笑みを浮かべて言葉を続ける。


「どうです、わずか一輪ではお寂しくもございましょう。ご用命とあらば、僭越せんえつながら私が粒ぞろいの美姫たちを集めましょう。貴方様にならば、娘たちはこぞって名乗りを上げるでしょう」

「お前の娘も、か? 要らぬ世話だな。あれ以上に私を癒す花などあるはずもない」


 素気無く切り捨てる皇子に、男は一歩として引く様子はない。

 今度はしかつめらしい表情をして、「ご自身のお立場を理解しておいでか」と叱責するように言ってきた。


「貴方様にはご自覚が足りていらっしゃらないようだ。でなければそのようなこと、決して申されはなさいますまい」

「自覚ならとうの昔からしている。だからこそたった一人を求め、選んだのだから」


 互いの言い分を聞き入れるつもりもない。静かに睨みあっていると、根負けしたわけでもないのに男が視線を逸らした。


「きっと、仕方のないことなのでしょうな。貴方様はまだお若くていらっしゃる」


 皇子の眉が不快に上がる。

 それでも男はほけほけと、いかにも寛大ぶって続けた。


「遠からず、お察しくださいますでしょう。貴方は兄君達とは違うのですから」


 ねっとりと、意識が遠のきそうなほど寒気のする笑みと声で、男は確かにそう言った。

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