第21話 とある兄弟

「なあ、鵬瑛ほうえい。お前もあの噂を聞いたのだろう?」


 くつくつといかにも楽しそうに笑っている兄に、鵬瑛ははてと首を傾げた。

 噂と言われればいくらでも頭に浮かぶが、その中にこの兄の興味を引きそうなものは思い当たらない。

 悩む鵬瑛の姿もまた面白いようで、響く笑い声がにわかに大きくなった。


「まさか鵬瑛が知らないとはね。なら、教えてあげよう。聞くところによると、我らが末の弟の後宮で一悶着起きているらしい」

「――ほう……? それはそれは、大変興味深いですね」


 是非お聞かせ願いましょう、と鵬瑛の目が光る。

 それに桂澄けいちょうは満足げな様子で「そうだろう、そうだろう」と何度も頷いた。愛用している羽扇をひらひらと遊ばせて、ますます笑みを深く刻む。

 端から見れば、至極和やかな兄弟の会話。

 だが、その目には見た目通りの色など浮かんでいなかった。雰囲気におよそ似つかわしくない、剣呑な光が宿っている。


「しかしだよ、鵬瑛。私が知っていることを話すのもいいけれど、ここは故人の言葉に倣ってみるのが良いんじゃないかと、私は思うんだよ」

「と、言いますと?」

「――会いに行こうじゃないか、私たちの義妹に」


 ふふ、と楽しげに桂澄が笑う。それは良いと鵬瑛も同じく笑った。


「あの子の嫌がる顔が目に浮かびますね。兄上も人が悪い」

「おや、それは心外だ。私ほど弟たちを愛している者もいないだろうに」

「………それ、香陽かようを前にしても同じことが言えますか?」

「…………私が悪かった」


 長弟に胡乱な目で見つめられて、間もなく桂澄は前言を撤回した。

 ほほほ、とどこからともなく柔らかそうな笑い声が聞こえた気がして、背筋がぞくりする。さすがに彼女を敵に回したくはなかった。なにせの義妹は、いろんな意味で恐ろしすぎるのだ。

 よもやと思って桂澄が周囲を確認すると、それ見たことかと鵬瑛に揶揄うように笑われて立つ瀬もなくしてしまった。


「まったく、どこで育て方を間違えたのだか。末っ子にはこうはなってほしくないね」

「兄上に育ててもらった覚えはまったくありませんが。そうですね、あの子はあの子のままであってほしいことには同意しますよ」


 とはいえ、現実そうはいかないことは二人がよくわかっている。権謀術数のめぐるこの場所で、清廉潔白であり続けることは不可能とほぼ同義。清濁あわせ呑まなければ生き残れない。

 二人はそれをよく知っている。

 けれど、だからこそ願わずにはいられなかった。

 心を押し殺して悪鬼羅刹の蠢く中へ身を投じなければならない弟の、その心が壊れることのないように。誰しもに許されるはずの幸福に出会えるように。


くだんの女人は、支えに足る存在なのか。ーー見極めねばなりませんね」

「我が弟ながら、恐ろしいものだねぇ」


 わざとらしい口ぶりでおどけるように肩を竦める。軽率なように見えるのに、その目は弟と何ら変わりなかった。


「おや、あれは」


 何かを認めた桂澄が、ちょうどいいとしたり微笑む。兄に続いてそれに目を付けた鵬瑛も、思った以上に上手く事が運びそうだとほくそ笑んだ。


「やあやあ、こんなところで奇遇だね、姚佳」

「え? あっ、どうしてあなた方がっ!?」


 仰天する姚佳に表面だけは穏やかな笑みを湛えて、二人はすかさず距離を詰める。

 不穏な気配を感じて物怖じする姚佳に、逃がすものかと手を取って、抱き寄せるように細い体を引き寄せた。

 ぱっと顔を赤らめた少女の恥じらう姿に気を良くしながら、桂澄はおもむろに口を開いた。


「実は、君にしか頼めない大事な用があってね。ーー心優しい君ならば、きっと引き受けてくれるだろう?」


 甘い微笑と、女心をくすぐる言葉選び。

 それが計算されたものだとわかっていても、すぐさま跳ね除けられないのは未熟さ故か。


「ま、まずはお話だけ、お聞かせくださいませ……」


 せめてもの矜持を保ちつつ、しどろもどろと応える。

 まずまずと言える結果に、桂澄はもちろんだと大きく頷いた。


「立ち話もなんだ、道すがらでも構わないか?」

「かしこまりました。………あの」

「うん? どうかしたかい?」


 困ったように自分を見上げる少女に、はて、と気さくに話しかける。

 姚佳は耳まで真っ赤にして、小さな声で「手を……」と呟いた。

 ようやく思い至った桂澄が、これは失礼したと名残惜しげに手を離す。鵬瑛は冷たい目で兄を見てから、ほっとしたように自身の手を撫でる彼女に少なからず同情した。

 ああ、また兄の悪い癖の被害者が増えてしまった。


「兄上、お戯れも程々に。災難だったね、姚佳。どうか気を悪くせず、私たちに手を貸してほしい」

「は、はい……。私などにできることなど些細なことですが……」

「そんなに卑屈になるものじゃないよ。聞きたい事もあるのだから、気楽にいこうじゃないか」


 なぁ? と肩を抱く兄に、仕方のないお人だと思わず溜息が零れる。

 いかにも良好そうな兄弟の様子に姚佳は気を落ち着けつつ、「お話をお伺いいたします」と気を取り直した。


 さて、ひどく緊張した様子の姚佳は不安を隠しきれない瞳で兄弟を見つめていた。小柄な体格も相俟って、それが桂澄の悪戯心を擽っていることにも気付かずに、掛けられる言葉を今か今かと待ち受けている。

 兄の悪癖にまた深く溜息を吐いて、鵬瑛が代わりに口を開いた。


「そんなに構えるようなことではありませんよ。今噂になっている義妹いもうと君に、是非ご挨拶をと思ってね」


 ね? なんてことはないでしょう?

 鵬瑛はやんわりと微笑むが、姚佳には至難の課題である。


「……恐れながら、それは私の力の及ぶものではございません」


 申し訳ございません、と頭を下げる彼女に、兄弟は顔を見合わせた。

 彼女が正妃付きになったことは、彼らも知るところである。彼女ならば取り計らうこともできるだろうと考えたのに、力が及ばないとは。


「……殿下は、清翔殿下は、ご正妃様をそれはそれは大切になさっておいでなのです」


 ですから、今となっては私たちも近付くことは禁じられております。

 申し訳なさそうに眉を下げる姚佳に、桂澄は顎に手を当てて、ふぅむと何事か思案する素振りをしてみせた。


「うぅん、どうしたものか。いきなり予定が狂ってしまったぞ」


 わざとらしい言い方にも姚佳は肩身を狭くして、申し訳ありませんとか細い声で謝罪する。

 彼女の不備でもあるまいに、と鵬瑛が労りの言葉をかける。

 その間も桂澄はどうしたものかと何度も口遊くちずさんだ。やがて、狙ったようにはかりごとを口にする。


「致し方ない。義妹殿を驚かせてしまうのは本意ではないが、非礼は直接詫びようではないか」


 にやりと悪どい笑みを浮かべた彼に、姚佳がぎょっとして取り成そうと手を尽くす。

 その隣で、鵬瑛は額に手を当てた。

 どうせ初めからそのつもりだったのだろう。

 昔から、この兄の破天荒に自分たちはよく振り回されてきたから、わかってしまう。


「弟を誰より愛しているのではなかったのですか?」


 愛しているのなら、その心労をほんの少しでもいいからおもんぱかってほしいものだと溜息ながらに思うけれど、弟の心兄知らず。桂澄は「勿論だとも!」と意気揚々頷いた。


「愛しているからこそ、さ」


 満面の笑みで言い切る兄に、鵬瑛は溜息を禁じ得なかった。

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