第20話 揺れる天秤
薄暗い部屋の中で、夏蓮は目を覚ました。どうやら眠ってしまっていたらしい。
変な体勢で寝ていたためにすっかり硬くなってしまった筋肉を伸ばして、代わり映えのしない室内を見渡す。
両親に、この話は届いているのだろうか。
心配をかけてしまっているのだろうか。
(ーーなんて、そんなことあるはずがないのにね……)
夏蓮は切なく笑った。
閉じ込められてしばらく、落ち着きを取り戻したはずの心が弱くなっている気がする。
自分は、自分で思っていたよりも弱い人間だったらしい。
情けないことだと呆れながら、夏蓮は椅子から立ち上がった。
寝起きでふらついた体勢を立て直し、行く手を阻む扉に手を当てる。触れて、何を感じるというわけもない。それでも、何となくそうしていた。
(みんなは、どうしているかしら……)
鳳泉、姚佳、花媛。女官のみんな。
長い付き合いでもないのに、毎日見ていた顔を見れないのがどうしようもなく寂しい。
気づかないうちに、随分慣れきっていた。ここは、とても居心地が良かったから。ーーーーあの人のことも。
跳ね除けながらも、なんだかんだであの日々に幸せを感じていた。こんな毎日も悪くないと思っていた。
嫌いなわけではなかった。嫌いになることはできなかった。
だからこそ、憎らしかった。
きっと、浸りすぎたのだろう。気を許しすぎた。だから、今を辛く感じるのだ。
(いっそ、飽いてくれたなら良かったのに……)
そうして放り出してくれたなら、ここまで思い悩むこともなかったはずだ。
(馬鹿ねぇ、わたし………)
悪果に行き着いてから気づいても、もう遅い。
本当に、馬鹿。
自嘲して、夏蓮は扉にもたれかかった。
と、その時。
ーーーーギィ……
後ろにずれた背に驚いて振り返る。
(まさか………)
そう思いながらも、扉を押す。重い。しかし、
吹き込んだ風と外の空気に、泣きそうになった。
ばくばくと、心臓が狂ったように暴れまわる。
いまなら、ここから逃げ出せる。
今しかない。
なのに、夏蓮はその一歩を踏み出すことができないでいた。
足が石のように重くなって動けない。
風が誘うように吹き込むが、それが逆に躊躇いを生んだ。
(あの人は、わたしが逃げたって知ったらどうするのかしら)
それを言い訳にしてしまうほどの迷いが夏蓮の中にはあった。
痛いほど固く、目を瞑る。真っ暗になった視界で、それでもちらつく影に胸が疼いた。
こんな機会が二度とは来ないことは明白だった。
それでも、手を伸ばしてはいけないと心の何処かが叫んでいる。
夏蓮は扉に背を向けた。
振り切るように寝台に倒れこみ、視界からそれを弾き出す。胎児のように体を丸めて、白むほど強く拳を握った。
許容したわけではない。何度も言い聞かせるが、忘れてしまおうと躍起になればなるほど、頭にこびりついて離れない。
もしこれさえも策のうちだというのなら、本当に酷い仕打ちだ。
理不尽な非難を浴びせながら、熱を持った目を枕に押し付けた。じわりと布が水気を帯びる。喉も震えて、殺しきれない嗚咽が漏れ出て室内に響いた。
どこで間違えてしまったのだろう。
いつかの皇子と同じ問いに悩み、あの時の答えこそ相応しいと改めて思った。
間違っていたのだ、最初から。何もかも。
(もう一度……)
縋るように扉を見つめる。願いにも似た言い訳を増やして、疲れ切ったようにまた目を閉じた。
夢の世界は、夏蓮に自由を与えてくれる。夢は、夏蓮を苦しめない。
❀ ❀ ❀ ❀ ❀
夕暮れ、皇子は常になりつつある訪いの道中、険しい顔をして、張り詰めた
咲き誇る折々の花には目もくれず、ひたすらに一路を進んでいく。
思う通りにいかないということは、予め想定していた。だがその想定以上にままならず、芳しくない報告ばかりを耳にしては心中穏やかでいられない。
こんな状況がいつまで続くのかと苛立ちを隠せないでいた。
部屋に続く回廊に差し掛かった時、皇子は驚くべきものを目にした。まさかと腰にあるはずの鍵に手を伸ばす。
確かに、鍵はあった。それでも目先のものは変わらない。
皇子は顔を青ざめさせて駆け出し室に飛び込んだ。
(っ夏蓮……!)
声を上げることさえできず、皇子が部屋に飛び込む。夕陽の差し込まない室内は薄暗く、不明瞭な視界がさらなる焦りを生んだ。
力任せに扉を開け放ち、僅かばかりの明かりを取り入れる。
布に埋もれるようにして寝台に沈みこむ夏蓮を見つけて、皇子は血の気の引いた顔で手を伸ばした。
「寝て、る……?」
そうだ、寝ている。胸が浅く上下しているし、小さいが寝息も聞こえている。
皇子はどっと脱力した。はは、とどれくらいぶりかの笑い声が口を出る。
声に反応してから身動いだ夏蓮に、すまぬと囁くように呟いた。
燭台に火を灯し、周囲に誰もいないことを念入りに確認してから静かに扉を閉める。寝台に腰掛けると、重さに軋む音がした。
首筋に触れるとたしかに彼女の脈を感じられて、皇子はようやく肩の力を抜く。
橙色の灯火に照らされて、彼女は今も眠り続けていた。微かに聞こえる不規則な寝息が心地よい。
そっと頰に手を添えると、柔らかな感触とともにほのかな温もりが伝わってきて、確かにここにいるのだと安心させた。
こんなにも穏やかな表情を見るのは本当に久しぶりだ。最近では触れることも滅多になかった。
けれど目を覚ましてしまえば、また感情を押し込めて表情を凍らせてしまうのだろう。
たとえ束の間のことであろうとも、皇子はしかとその目に焼き付けようとしていた。
もそりと夏蓮が寝返りをうつ。その拍子に手が離れてしまったが、顔がよく見えるようになった。
すると、長い
致し方ないこととはいえ、彼女に無理を強いていることはわかっていた。
もう少しやりようはあったはずなのにそうできなかったのは他ならない自分のせいだった。
彼女は、自分の目のないところでこうして一人泣いていたのだろうか。
胸を痛ませ、水滴を掬う。夏蓮はもどかしげな声を漏らしたが、起きることはなかった。
不意に、衣装を引っ張られる感じがした。見てみると、掛布か何かと勘違いしたのか裾を掴まれていた。
幼子のようなそれに仕方のない奴だと苦笑しながらも、無意識だからこそ堪らなく嬉しくて、愛しかった。
自分の言動について、遊びだ意地だと夏蓮は度々口にしていた。
けれど、そんなはずはない。
これほどまでに強い感情が、遊びなどであるはずがなかった。たとえそうであったなら気もずっと楽だっただろうと、皇子自身でさえ思ったほど、この感情は根深いものなのだ。
「どうしたら、お前に伝わるのだろうな」
周囲の危惧に、本人だけが無自覚で。きっと夢にも思っていないのだろう。
人を疑うことを知らない気質は、安らぎも焦りも
寝ぼけた夏蓮がむずがる。目覚めが近いのだろう。
皇子は立ち上がった。夕餉を取りに行かなければならない。
部屋を出る間際に、もう一度寝台に目を向ける。
夏蓮はまだ安らかな表情をして微睡みの中にいた。
扉を閉め、しっかりと鍵をかける。念のため周囲を確認して、皇子は厨房へ急いだ。
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