第30話 一矢

「随分と、堪え性のない方ですね。後少しでも待てたなら、皇子自ら里下がりを言い渡したかもしれないのに」

「だって、そんな生温い処分で満足なんてできないわ。たかが中流貴族の娘風情が、ここまでわたくしの手を煩わせたのだもの。ーーそれだけでも、万死に値するでしょう」


 当然と言い放つ媺苑に、くつりと夏蓮が喉を鳴らす。


「風情、とは随分な言い様ね。わたしを誰だと思っているのかしら?」


 夏蓮が初めて敬語を外した。

 挑発的な言葉に、媺苑の眉が寄せられる。

 忌々しいと隠しもしないその顔に、夏蓮は敢えて哀れむように微笑んだ。


「確かに、わたしは中流貴族の娘。でもね、清翔様に選ばれたのはわたしなのよ」

「……夢を見るのも、大概になさいね。浅ましい……お前のような下女が、どうして選ばれるというの。私でなく、お前が選ばれる? そんなこと、あるわけがない。いいえ、あってはいけないのよ! 美しくも、富んでもいない、お前如きがっ!!」


 興奮して言葉を乱した媺苑に、夏蓮は僅かに目を細めただけだった。

 それがことさら癇に障ったのだろう。戦慄わななく手が扇子を投げつける。硬い顳顬こめかみに当たったけれど、夏蓮は微動だにしなかった。


 肩を怒らせ、今にも罵り出しそうにしている媺苑を、夏蓮はくだらないと冷めた目で見ていた。


 そんなこと、今更言われるまでもない。自分自身そう思わないことはなかったのだから。

 かつてならばそれだけで済んだだろう。しかし、今の夏蓮はまだ思うところがあった。

 たとえ一時の夢であろうと、与えられたすべては夢ではない。たとえ気まぐれであっても、この女にだけは否定させたくはない。


「夢を、見ているのは……現実を見ていないのは、どちらかしらね?」


 媺苑の表情が凍る。刹那の間瞳が揺れたのを見て、わざと口角を上げた。


「ねえ。夢を見てるのは、本当にーーわたし?」


 らしくない言動を取り続ける夏蓮に、鳳泉が戸惑いの色を浮かべる。

 不安そうに伺うその目は、椅子の蹴倒される音がするや否や外された。


「お前達、何をしているの! 早く……早くこの女を殺しなさい!」


 戦慄わななく指が夏蓮達の上にとまる。目を血走らせ、金切り声が耳をつんざいた。一度では飽き足らず頻りに繰り返し喚く姿は、何かに取り憑かれたように正気を失っている。

 その中で、微かに金属の擦れる音が響いた。


「いいのっ? わたしは、第三皇子の正妃よ!」


 叩きつけられた言葉に躊躇ちゅうちょした男達の一瞬の隙を突いて、夏蓮は鳳泉の体を突き飛ばした。咄嗟とっさのことに反応しきれなかった彼女は、その先に立ち尽くしていた媺苑にそのままぶつかった。がしゃりと大きな音がした。

 もつれ込み、図らずも身体中で彼女を取り押さえる形になった鳳泉は、慌てて夏蓮を振り仰いだ。


「夏蓮様ぁっ!!」


 鳳泉は脇目も振らず走り出した。衣の纏わりつく足を必死に動かして手を伸ばす。

 夏蓮は動かない。動けない。

 鋼の剣がひらめく。

 ゆっくりと、勢いよく剣が彼女に向かって振り下ろされていく様を見せつけられる。


 夏蓮はゆっくりと目を閉じた。






 ーーーー瞬間。



「っぐぅ!?」


 何かが撥ね飛ばされる音がすると同時に、剣を振りかざした男がくぐもった声を漏らした。

 恐る恐る目を開けると、目の前の男は血走った目を見開き、体を震わせていた。

 男は自立することもできず、白目をむいてやがて倒れた。

 その胸には、一本の矢。


 勢いよく、扉の開かれる音が響く。

 開け放たれたそこには、陽の光を背に浴びて立つ人影があった。


「全員動くな!」


 緊迫した声。

 驚愕に固まる夏蓮の耳が、複数人の剣を抜く音をとらえた。


 標的を変えて、男達が乱入者に襲いかかる。既に踏み切っていたそれらを、乱入者達は最小限の動きでなし、捕縛した。


 揉み合うその中から、一人が室に踏み込んだ。腰には剣、左手には弓。背負う矢筒には、端数はすうの矢が残っている。

 夏蓮を助けたのは彼だ。


「自害せぬようくつわを噛ませよ! 誰一人として逃すことまかりならぬ!」


 配下の兵士たちにげきを飛ばしたその人は、真っ直ぐに夏蓮の元へとやってきた。へたり込んでしまった夏蓮に、心配そうな顔を向ける。


「み、んなは、ぶじですか……」


 掠れた声で問う彼女に苦笑が零される。


「こんな時まで自分は二の次なのか?」


 困ったやつだ。

 響いた低音に、夏蓮は目頭が熱くなるのを自覚した。

 視界が水膜でぼやけていく。でも、幻覚だったらと怖くて瞬きできなかった。

 はらはらと目尻から溢れて筋を描く雫を指で拭い、彼は、夏蓮を引き寄せ抱きしめた。


「助けに来たぞ、夏蓮」


 耳元で囁かれたのは、たった一言。

 衣装に焚き染められた香の匂いと、それ越しに伝わる温もりが、ゆっくりと心を解きほぐしていく。

 夏蓮は堪らずその背に腕を回した。

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