18.月映えを舞う風③

「落ち着け、オリヴィア」

【落ち着いているわよ。ちょっと腹が立っているだけで】


 振りほどかれた手で、苛立たしげに黒髪を乱したリベルトは溜息をつく。オリヴィアは胸の前で両腕を組むと碧色の瞳をすがめた。


「どこから聞いたんだ、その話」

【侍女の声を聞いてしまったの】

「くそっ、そこまで話が回ってんのか」


 オリヴィアは嘘はついていないと、自分に言い聞かせた。侍女から直接聞いたわけでもないし、オリヴィアに聞かせようとしていた声ではないけれど『悪意の声』が聞こえたのは事実だからだ。

 悪態をついたリベルトは意識して深い息を吐くと、手を伸ばしてオリヴィアの腕をほどかせた。そのまま両方の手でオリヴィアの両手を取ると、しっかりと握りしめる。


「そんな事は絶対にさせない。ルーゲあたりが侍女にこぼしたんだろうが、もうそんな話もさせない」

【わたしだって嫁ぐつもりはないわ。わたしが怒っているのは、わたしの知らないところで勝手にそんな話が進められている事よ】

「お前の言うことは尤もだ。悪かった」

【大体、どうしてわたしがどこかにお嫁に行くだなんて話が出たの?】


 オリヴィアの問いにリベルトは口ごもる。棘のある視線でオリヴィアはリベルトを見つめ続けた。答えが返ってくるまでは、ずっとそうしているつもりだった。


「……聞いたら気を悪くすると思うんだが」

【それを言われて、引き下がるとでも?】

「そうだよな、分かってる。あー……くそっ」


 迷うように視線をさ迷わせていたリベルトは、悪態を最後にオリヴィアと視線を重ね合わせた。碧の瞳にはすべてを受け入れるだけの覚悟と共に、苛立ちが色濃く映っていた。


「姉ちゃんを俺の嫁に据えて、お前も義妹として迎え入れる。そして竜王国の王族として他の国に嫁がせて国交を磐石のものにする……って考えた奴がいるんだよ」

【わたしは竜人じゃないのに王族として?】

「お前は魔女だ。お前が思ってる以上に、その身は尊いんだよ」


 苛立ちを纏った声でリベルトが吐き捨てる。感情が揺れ動いたのか、リベルトの魔力が漣となって風を起こした。舞い遊ばれるピンクゴールドの髪を、オリヴィアは自嘲気味に眺めていた。


【まるで道具ね】

「お前はどこにもやらない。俺を信じろ」


 風が強くなる。

 庭の花香を強く含んだ風が、リベルトとオリヴィアを包む壁となった。くるりくるりと二人を囲って回る風の中でリベルトの声だけが熱を持っていた。


【信じてもいいの?】

「俺はお前を裏切らない」


 力強く紡がれた言葉に、オリヴィアは少しの間沈黙を守る。心が揺らぐ感覚に浚われてしまいそうで。


「オリヴィア」


 焦れたように名を呼ばれて、ようやくオリヴィアは頷いた。重ね合わせた金の瞳はどこか必死で、自分だけを真っ直ぐに見つめていた。


【わたしの事も信じてくれる?】


 震える唇が形作った言葉に、リベルトは迷いなく頷いた。その様子に思わずオリヴィアが笑ってしまうと、ようやくリベルトもその表情を和らげた。掴んだままの両手をそっとほどくと、オリヴィアの頭にぽんと片手を乗せた。

 二人を囲んでいた風の壁がゆっくりと消えていった。あとには花香だけが残るばかりで。


「すまねぇな、変な事に巻き込んじまって」

【今更でしょ】

「違いねぇ」


 低く笑ったリベルトはオリヴィアの髪をそっと撫でる。何かを確かめるようなその仕草に、オリヴィアは鼓動が跳ねる事を感じていた。

 あの春の日も、黒竜の姿で触れてくれた。ざらざらとした独特な掌の感覚を、優しい仕草を今もオリヴィアは覚えている。


「……俺を助けたのは、本当にお前じゃないのか」


 オリヴィアに問いかけるというよりも、リベルトが自身に言い聞かせるような声色だった。その答えをオリヴィアは口にする事が出来ずに、ただ眉を下げた。


「悪ぃ、違うって言われてんのに」

【気にしてないわ】

「解呪が終わったら、家に帰るんだろ?」

【ええ、そうよ。もう少しで終わる予定】

「会いに行ってもいいか」


 予想外の言葉にオリヴィアは目を見張ってしまう。その表情にリベルトは低く笑うばかりだ。


【そんな暇はないでしょ】

「作るさ。飛んでいけばすぐだしな」

【……姉さんと喧嘩しないでね】

「それは姉ちゃん次第だろ」


 それも間違いない。肯定の言葉を口にするのは憚られるも、笑ってしまっては頷いたのも同じことだ。オリヴィアはそう思いながらも、笑いを堪える事が出来なかった。


「すっかり長居しちまったな。眠くねぇか?」

【言われたら少し眠たいかもしれない。この後にお仕事に戻ったりしないわよね?】

「あー……まぁ、早く寝る」

【もう、やっぱり。いつか倒れてしまうわよ】

「そしたら看病してやってくれ」


 オリヴィアの頭をぽんぽんと撫でて軽口を紡ぐと、リベルトは手摺に手を掛ける。


「おやすみ、オリヴィア」

【おやすみなさい】


 オリヴィアの唇がそう形作るのを読み取って、リベルトはひらりと手摺を乗り越える。音もなく着地して、一度振り返ってオリヴィアへと手を振った。

 応えるようにオリヴィアも手を振ると、リベルトはそのまま闇に溶け消えていった。灯りの届かない庭園の奥に、その姿を見つける事は出来なかった。


 オリヴィアは自分の頭に手を乗せた。

 未だにリベルトの温もりが残っているようで、胸の奥が軋む気がする。


(惹かれてはいけない。気付かれてもいけない)


 沸き上がる感情に蓋をして、自分に言い聞かせる。あと数日もすれば解呪も終わる。そうしたらもう終わり、会うこともない。


 会いにくるだなんて、きっとない。


 それでも胸の高鳴りはまだ治まってはくれなくて、オリヴィアは空を仰いだ。先程よりも傾いだ月は蒼映あおばえて、傍らには一際輝く金の星が寄り添っている。

 夜気に包まれてもどこか落ち着かず、オリヴィアは体が冷えてしまうまで部屋に戻る事は出来なかった。

 

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