3.靄
扉を開けた先にいたのは、身なりのいい男と二人の兵士だった。竜王国からの遣いというからには、この人達も竜族なのだろうがオリヴィアには普通の人間にしか見えなかった。
遣いは真白の髪を綺麗に後ろに撫で付けて、柔和な笑みを浮かべている初老の男だった。
「バルディ様でいらっしゃいますね」
「なにか?」
素っ気ない姉の態度に、オリヴィアは内心で苦笑するばかり。
「以前、この森で竜の子を助けた事を覚えておいででしょうか」
「さぁね、どうだったかしら」
「その子は竜王となりました」
「そうなの、良かったわね」
「つきましては命の恩人であるバルディ様に御礼を申し上げたいと、王城に招くよう仰せつかっておりまして」
「結構よ。どうぞ忘れてと伝えてちょうだい」
悪態にも近いロザリアの声。それを窘めるだけの余裕がオリヴィアにはなかった。
気持ちが悪い。全身を細い無数の針で刺されているような不快感に襲われる。
「その他にもお仕事を依頼したく思っているのです。魔女としてのバルディ様に」
ロザリアの態度も気にした様子がなく、遣いは穏やかに言葉を紡ぐ。
仕事と聞いてロザリアは一瞬たじろいだ。【魔女への依頼は、誰かを傷付けるもの以外は全部受けること】それが母の教えだからだ。
ロザリアとオリヴィアは顔を見合わせたけれど、ロザリアは妹の顔色が悪くなっている事にそこで気付いた。
「すみません、少し待って頂けます? 妹の具合が悪いようで、奥で休ませてきたいのですが」
「ええ、どうぞごゆっくり。我々はお庭で待たせて頂いても?」
「はい、では失礼します」
扉を開けたまま、オリヴィアの手を引いてロザリアはリビングへと向かった。その窓からなら庭にいる三人の姿も確認できる。
ソファーに座ったオリヴィアは肩で息をして、嘔吐感に耐えようと口を両手で覆った。
「大丈夫?」
気遣うロザリアに、オリヴィアは眉を下げながらも頷いて見せる。震える手で魔法黒板を引き寄せると、白墨を手に文字を紡いだ。
【
その一文に、ロザリアの表情が険しくなる。
靄――それは悪意。
オリヴィアには人の悪意が靄となって見えるのだ。母が言うには、魔法を使う術を持たない体の防衛反応らしい。強い魔力がオリヴィアの体を守ろうとしているのだと。
「八年も経ったいまになって、あんな遣いをよこすだなんて竜王とやらは何を考えているのかしら。しかも悪意を持った遣いでしょ」
【あの悪意はわたし達に向けられたものじゃないわ】
「どういうこと?」
【あの人が竜王の話を始めたら靄が掛かったの。あの人は竜王に悪意を持っている】
「……仕事は断りましょう。嫌な予感がばんばんするもの」
【だめよ。あの黒竜が危険なら、助けてあげたい】
「あのねぇ……あんたが竜王のために、なにかしてあげる義理なんてないのよ。一度命を助けただけで充分じゃない」
【姉さん、お願い】
悪意から離れて、体調が良くなってきたオリヴィアは顔色も戻っている。顔の前で両手を合わせてロザリアに縋った。
腕を組み、リビングの中を歩き回っていたロザリアは、妹の様子をちらりと横目で伺った。わざとらしく盛大に溜息をついて見せてから、勢いよくソファーへ腰を下ろす。
「もう! 危ないことがあったらすぐに帰るわよ。あたしは竜王なんかより、あんたの方が大事なんだからね」
妹の肩を抱き寄せ、ロザリアがまた溜息をつく。なんだかんだ言って、ロザリアはオリヴィアに弱いのだ。
【ありがとう、姉さん】
「不本意だって事は覚えておいてよね。大体、なんでそんなに黒竜に固執するのよ」
ロザリアの問いにオリヴィアが声なく笑う。
【綺麗だったから】
短く書かれたその理由に、ロザリアは眉を寄せる。妹の額に自分の額をこつんと預け、緑がかった瞳を間近で見つめた。お人好しね、とロザリアの呟きにオリヴィアは目を細めるだけだった。
姉妹は庭に出て、待たせていた遣いの元に向かう。
相変わらずオリヴィアの目には、遣いが全身から立ち上らせる靄が見えているのだが、姉が持たせてくれた
「お待たせしました」
「いえいえ、妹君は大丈夫ですかな?」
「ええ、妹は少し体が弱いもので。それで、私達へのお仕事の内容を伺っても?」
「魔導具の解呪をお願いしたいのです。数が多いもので、しばらく王城に滞在してお仕事をして頂けたらと思っていましてね」
にこやかな遣いの言葉に、ロザリアはしばし考え込む。
依頼内容自体に問題はない。ただ、オリヴィアの見る靄がどうにも気にかかってしまうのだ。
「魔導具を拝見させて頂いて、それから契約を。それでも宜しいですか?」
「噂に聞く【魔女の契約】ですな。もちろんですとも」
魔女の契約――依頼を受ける時に交わす契約書。
言葉にすればそれだけなのだが、魔女の契約は普通のそれとは少し違う。その契約に嘘偽りがあれば契約は無効になるだけではなく、契約者が【大切なものを喪う】のだ。それは人であったり、地位であったり、財産だったり。その時により様々なものに異なるが、契約者が不幸になるのは間違いない。
強大な魔力を悪用されぬようにと、原始の魔女がかけた呪い。その呪いがいまも魔女達の血脈に引き継がれている。
【魔女の契約】の話をしても、遣いが動揺する素振りは見えない。となると魔導具の解呪に関しての依頼は本物なのだろう。気にかかるのは立ち上る
「ではお受けしましょう。準備がありますので、明日からでも宜しいですか」
「もちろんですとも。バルディ様のご都合の宜しい時に」
遣いは柔和な瞳を更に細め、兵士と共に礼をしてから森へと去っていった。しばらくして巨大な翼を持つ三頭の竜が空へと飛び立っていく。
その姿に、やはり竜族なのだと実感するばかりで、オリヴィアは知らず内に息をついた。
「ね、やっぱりあたしの予感は当たるでしょ」
【悪いものなのかは、行ってみないと分からないもの】
「もう。あんたも大概強情よね。黒竜が綺麗って、それだけの理由じゃなさそうだけど……」
肩を竦める姉に対して、オリヴィアはにっこり笑うばかりだった。
雨の気配が、軽やかな風の中に混ざっている。穏やかな春の午後だった。
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