35.甘い毒

 紫紺と茜が混ざる夕間暮れ。室内を染めていた金色は波のように引いて、夜の帳を連れてくる。

 薄暗くなった部屋の明かりをリベルトが点けると、その眩しさにオリヴィアは瞬きを繰り返した。


「八年前の事なんだが」


 耳に届いた声に、ショールを羽織直したオリヴィアがリベルトに視線を向ける。もう隠すつもりはなかった。そのつもりで、二度目だと告げたのだから。


「俺を治した事で、お前は声を失ったと聞いた」

「そうね。喉が嗄れて魔力が尽きるまで歌ったのが、原因みたい」

「……無茶をするのは八年前から変わらなかったんだな」

「無茶かしら」

「無茶だろ」

「助けたいと願っただけよ。あの時も、今回も」


 その声に、言葉にそれ以上の意味などなかった。

 ただ真っ直ぐな願い。それを読み取ったリベルトは、胸の奥が軋むような感覚に襲われた。純粋で無垢で、ともすれば幼子のような、自分勝手にさえなりかねない願い。そこにはやはり魔女の本質が垣間見えるようで、リベルトは低く笑った。


「……その真っ直ぐさが、お前の魔力の根源なのかもしれねぇな。お前は俺を責めないのか? 俺を助けたせいで、魔法が使えなくなったと……」

「どうして責めるの? 助けたいと願って、それが叶った。それ以上に何があるの?」


 その言葉に嘘も偽りもなかった。偽善でも何でもなく、ただ自分の信念のままに。そんなオリヴィアの芯の強さを目の当たりにして、リベルトは参ったとばかりに両手を上げた。


「お前には敵わねぇよ」

「何よそれ」

「ありがとうって、ことだよ」

「絶対に違う意味だと思うけれど。まぁいいわ、どういたしまして」


 わざとらしく肩を竦めたオリヴィアは、可笑しそうに笑った。春花が綻ぶような柔らかな笑みで。

 その笑みに、リベルトは自分の中で熱が渦巻くのを自覚していた。それが何なのか、もう既にリベルトは知っている。

 それを顔に出さないまま、リベルトは足を組み替えて、茶化すような声で言葉を紡いだ。


「八年前に助けたのは自分だって、何で言わなかったんだよ」

「だって、『助けてくれた女の子を妃にする』っていう事で姉に話がいったでしょう。そこで実はわたしなんですって言ったら、わたしがお妃になりたいって言ってるのと一緒じゃない」

「なんだよ、妃になりたくねぇのかよ」

「そういう意味じゃなくて。あなただっていきなりそんな事を言われたらちょっと怪しく思うでしょ」

「さぁ、どうだかな」

「絶対思うわよ。怪しいもの」


 感情の乗った声に二人で笑った。

 オリヴィアは、すっかりと声が馴染んでいる事を感じていた。先程まで慣れなかったはずなのに、八年間の空白がどこかに吹き飛んでしまったようだ。


 リベルトは一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉を紡ぎだした。自分の声の固さに気付いて、空咳をひとつ落とした。


「最初に話がいった時に姉ちゃんが、俺の妃になるって言ったら……お前はどうしてた?」


 時間が止まったようだった。

 オリヴィアの碧の視線と、リベルトの金の視線が重なり合う。視線に迷い込む感覚に、自分の呼吸が大きく聞こえた。


「……祝福していた、かも……」


 その言葉を耳にしても、リベルトは落胆しなかった。迷うような声色と、碧色に落ちた翳りに目敏くも気付いていたからだった。


「それは、最初の話だろ。じゃあいまは?」

「いま……?」

「いま、俺が……『助けた女の子を妃に迎える』と言ったら」


 リベルトの紡ぎ出す言葉を、オリヴィアは心の中で反芻していた。

 それは一体どういう意味なのだろう。助けたのが自分だと知って、尚もそういう事を言う、その意味は……。

 そこまで考えて、オリヴィアの胸がずくんと疼いた。甘い疼きを誤魔化すように視線を手元に逃がしたオリヴィアは些か早口に言葉を返した。


「命を助けられた事に恩義を感じているのなら、もう気にしなくていいのよ。わたしが、したいようにしただけで……別に感謝して欲しくて助けたわけじゃない。あの時告げたのだって、最後ならちゃんと伝えようと思って、その、妃にしてって意味で言ったわけじゃなくて……」


 そういえばキリルは『竜王様はオリヴィアちゃんが好き』と言っていなかったか。それに対して自分も『満更でもない』と。あの人はなんていう爆弾を落としていくのだろうと、初めてオリヴィアはキリルを恨んだ。


 オリヴィアは上掛けの布地を握ったり離したりを繰り返している。動揺の映るその仕草にリベルトは喉奥で笑った。どこまでもこの魔女は可愛らしい。そんな事を思うリベルトはオリヴィアの手をそっと握った。優しくも、決して離さないとばかりに強く。


「わかってる。だが俺は今回、色々無くしちまったもんでね、これ以上失いたくねぇのさ」

「あの、ええと……」


 手を握るのとは逆の指先で、リベルトはオリヴィアの顎に触れた。顔を自分に向けさせて、背ける事の出来ないように固定する。碧の瞳が羞恥と戸惑いに揺れていた。


「お前の歌に支えられてた。それは紛れもない事実だが、それとこれとは別の話だと考えてくれ。オリヴィア、お前と過ごす夜の時間が、どれほど俺にとって幸せな時間だったか。声がなくとも感情豊かなおしゃべりだとか、穏やかなのに辛辣なところだとか、寄り添ってくれる温もりに俺がどれだけ救われていたか――」

「ま、待って。ちょっと待って」

「なんだよ、口説いてる最中なんだから口挟むなよ」

「口説、っ……! 待って、本当に色々と待って。止まって」


 余りにも真っ直ぐな言葉に、オリヴィアはもうどうにかなってしまいそうだった。慌てたように目を伏せて、待ってほしいと懇願するもリベルトの口が止まる事はない。

 よく姉が『ああ言えばこう言う男』だと言っていたけれど、今なら全面的に同意できるとオリヴィアは思った。


 オリヴィアの様子にリベルトは肩を揺らすばかり。あまりにも優しいその笑い声に、伏せていた視線を向ける。金瞳が色濃く、まるで熱に浮かされているようだ。

 リベルトは細い顎に触れていた手を、滑らかな頬に滑らせた。


「色々挙げたらきりがねえけど、こんなの全部お前に惚れてるからだろ。お前の事が好きだから、お前の全てが特別に感じるんだ」


 甘い声。

 その声が、眼差しが、温もりが。全てがその睦言が本心であると示している。そしてその声は甘やかなのに、逃さないとばかりに獰猛だった。


「俺を好きだと言えよ、オリヴィア」


 それに抗うことが出来るのか。

 求められている事に喜びさえ感じてしまう。甘言が毒のように体を巡り、心が震える。


「……すき」


 オリヴィアは何かを考えるよりも、口が動いていた。

 気の利いた言葉でもない、ただ感情のままに漏れでたひとつの言葉。


 顔が燃えるように熱い。実際に燃え上がっているんじゃないかと思えるくらいに、ひりひりする。

 恥ずかしさに顔を両手で覆い隠すと、その手は簡単にリベルトによって剥がされてしまう。泣きたくなるくらいに恥ずかしいのに、リベルトが余りにも嬉しそうに笑うものだから、オリヴィアもつられるように笑ってしまった。


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