20.見えているもの

 背中に石柱の冷たさを感じながら、オリヴィアは己の迂闊さを悔いていた。

 自分の顔横には男の両腕。腕檻に閉じ込められて動く事も叶わない。目前には、にこにこと人懐こい笑みを浮かべるキリルがいる。

 どうしてこうなってしまったのか。オリヴィアはもう溜息を隠そうともしなかった。



 発端はひとつの忘れ物だった。

 また春に季節が戻ったように、穏やかな日差しが降り注ぐ午後。部屋で昼食を頂いて、また解呪に戻る途中。姉と共に廊下を歩いていたオリヴィアは、魔法黒板を部屋に忘れてしまった事に気付いた。それまで姉の話を聞いているだけだったから、気付けずにいたのだ。それでも今までこんな事は無かったから、疲れているのかもしれない。


 ひとりで部屋までの道を歩く中では、侍女達に見つからないようにと、それだけを願っていた。疲れているのに悪意に晒されては堪ったものじゃないからだ。それなのに不意に腕を引かれたかと思えば、こうしていまの体勢になっていた。オリヴィア自身でも何があったのか、理解が追い付かなかった。



「こんにちは、オリヴィアちゃん」


 声を潜めているものの、その声色は明るい。にこやかな表情なのに、その全身からは相変わらず悪意の靄が溢れている。その対比がオリヴィアにはひどく恐ろしかった。


「あれ、今日はあの黒板持っていないの?」


 答える手段を持たないオリヴィアは、眉を下げて小さく頷いた。それを見たキリルの目がすっと細められる。


「そっか。……ねぇオリヴィアちゃん。君も魔女なんだよね?」


 纏う気配が冷え込んだ気がして、オリヴィアは胸元に下げた護符アミュレットを握りしめた。問いかけには、また一つ頷いた。


「ロザリアちゃんは優秀な魔女だけど、君は声が出ないから魔法も使えないって。出来損ないって言われてるのを聞いちゃったんだよね」


 そんなの今更だとオリヴィアは思った。それで傷付くほど繊細なわけでもないし、確かに自分は魔法を使えない。この城の人達に悪意を向けられているのも知っている。

 オリヴィアが平気な顔をしている事が意外だったのか、キリルは目を瞬いた。


「なんだ、もしかして言われ慣れてる?」


 これ以上は付き合っていたくない。この悪意を浴びるのなら、侍女達に囲まれた方がまだましだ。そう思ったオリヴィアはキリルの腕の下を潜り抜けようとした。

 キリルはそれを許さずに、オリヴィアの両手首を掴むと石柱に押し付ける。先程までよりも距離が近付いて、オリヴィアは眉を寄せた。


「ふふ、こんな事されても助けを呼べないなんて不便だね」


 キリルの黒い瞳が眇められる。


「出来損ないなんて言われてるけどさ……俺には、オリヴィアちゃんの方が美味しそうに見えるんだよね。魔力量、とんでもないでしょ。声さえ出たら凄い魔女になっていたかもしれないのに、残念だね」


 お生憎様だとオリヴィアは内心で毒づいた。

 声が出ていた頃だって、魔力を上手に転化出来ずに魔法なんて使えなかった。出来る事といえば歌うことだけだ。

 それにしても、キリルがどうして魔力量に気付くのか、オリヴィアにはそちらのほうが気にかかっていた。それにここまでの悪意を持ちながら、全てを恨んで憎みながら、何故笑うことが出来るのか。それも何だか怖かった。


「……俺が怖い?」


 心の中を読まれたのかと、一瞬オリヴィアの肩が跳ねた。それは充分すぎるほどの返事になったようで、キリルはにやりと口元に弧を描く。


「面白いね、オリヴィアちゃん。ねぇ、君……何か見えてる?」


 見えているのは悪意の靄だけれど、キリルが言っているのはまたのような気がした。どちらにせよオリヴィアは答えるつもりもなく、ただ首を傾げて見せた。


「まぁいいや。オリヴィアちゃん、この後って時間ある? 俺、君の事が凄く気になるんだよね。気に入ったって言った方がいいかな」


 オリヴィアは首を横に振って、捕まれたままの手首を解こうと力を込めた。それをキリルは許さずに、更に拘束する力を強めるばかり。

 身の危険を否応なしにも感じて、血の気が引く。離して欲しいと睨んでみるも、キリルは怯む事もなくただ肩を揺らした。


「いいよね、ほんと。そうやって睨まれるとぞくぞくする」


 低く笑ったキリルの声が、纏わりつくような甘さを帯びているようで、オリヴィアは眉を寄せた。蹴り飛ばしてこの場から逃げ出してしまいたいのに、足の間に割り込んできた体はびくともしない。


「助けも呼べない。抵抗もできない。……最高かよ」


 キリルが顔を寄せてくる。出した舌の先は二つに分かれていて、舌を飾る銀のピアスが唾液に濡れて妖しく光った。顔を背けて固く目を閉じるしか出来ないオリヴィアの唇に吐息がかかる。――その時だった。


「おい」


 殺気を帯びた低音にキリルの体が離れていく。それを感じたオリヴィアはゆっくりと目を開いた。キリルの向こうには、冷酷な光を灯す金瞳――リベルトがいた。


「……リベルト様」

「こいつに触れるな」


 リベルトはオリヴィアとキリルの間に割り込むと、拘束しているの手を振り払う。開放されたオリヴィアは石柱に背を預けて、ずるずるとその場に座り込んだ。顔色の悪いその様子にリベルトは舌打ちをすると、オリヴィアの隣に膝をついた。


「お前、新しく来た庭師だったな?」

「そうです、キリルといいます」

「こいつは俺の客人だ。もう近付くな」

「……はぁい」


 怒りを圧し殺したようなリベルトの声に、キリルはいつものような笑みを浮かべて頷いた。一礼をしてから足取りも軽く、その場を去っていく。醜態を見られた事も、何も気にしていない平然とした姿で。



 オリヴィアは自分を抱くように腕を回し、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。


「大丈夫か?」


 震える体を落ち着けようとしているのが、リベルトには分かっていた。声を掛けると頭に手を伸ばして、そっと撫でた。先程の事を思えば振り払われてもいいと思いながら。しかしオリヴィアはそれをしなかった。リベルトの温もりを受け入れて、体の強張りを解いていく。


【助けてくれてありがとう】


 顔を上げたオリヴィアはまだ顔色が悪いものの、眉を下げて笑った。しかし碧色の瞳に未だ恐怖が浮かんでいる事に気付いたリベルトは――衝動が抑えられなかった。オリヴィアの華奢な肩に両腕を回して、抱き締めていた。

 オリヴィアは拒まなかった。されるままに体を預けているうちに、震えは次第に収まっていった。


 昼下がりの喧騒が遠くで聞こえていた。

 いまこの場所には、二人だけ。鼓動が重なる距離で、二人だけだった。



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