泡沫の魔女【Web版/書籍発売中・コミカライズ配信中】

花散ここ

1.歌おう、あなたの為に

 森の中に春が満ちている。

 柔らかな風が緑の匂いを運ぶ、麗らかな午後。木漏れ日が照らす砂利道を一人の少女が歩いている。

 ピンクゴールドの波打つ髪を高い場所でひとつに結び、赤い大きなリボンで飾っている。そのリボンの前にはちょこんとリスが座っていて、キィと高く可愛らしい声で鳴いていた。少女は青みがかった緑色の瞳を楽しげに輝かせている。足元では薄灰色のうさぎが、彼女の歩調に合わせるように跳び跳ねていた。


「危ないよ。踏んじゃいそうで恐いな」


 少女が声を掛けると、その言葉を理解しているようにうさぎが少し距離を取る。それでも跳び跳ねる軽やかな動きは変わらずに、愛くるしい瞳は少女に向けられている。


 少女の名はオリヴィア・バルディ。

 この森の外れにある赤い屋根の家に、両親と姉と暮らしている。


 オリヴィアは森で遊ぶのが大好きだった。草木の匂いも芳しい花香も大好きだ。繁る枝葉の隙間から陽光が差し込む日も、静かに降る優しい雨の日も森で過ごすのが好きだった。

 この森には獣もいる。踏み込んではいけない禁忌の場所もある。しかしオリヴィアにはそれが分かっていた。明確な線引きがされている訳ではないけれど、彼女にはその境界線が感じ取れるのだ。それは彼女の体に宿る【魔女】の血が為せるものかもしれない。



 オリヴィア・バルディは魔女である。

 魔女は強大な魔力を持ち、それは代々の娘に引き継がれていく。オリヴィアの母が魔女の家系で、オリヴィアも姉も魔女特有の魔力を引き継いでいた。

 しかしその魔力を利用されないようにひっそりと暮らしている。それは他の魔女もそうらしい。オリヴィアの家は月に一度ほど近くの町に降りていって、薬を売ったり魔法関連の頼まれ事をこなしたりして生活をしている。魔女といっても仕事をしないと生きてはいけない。


 オリヴィアの姉は母を凌ぐといわれる程の天才魔女だ。難しい魔法も難なくこなし、解呪だってお手のもの。治癒魔法が特に秀でていて、治癒に関しては母もすっかり姉に任せているほどだ。

 対するオリヴィアは……魔力量だけなら代々の魔女よりも凄いと母に言われている。しかしセンスがないのか、魔法をうまく使う事ができないのだ。母も姉も根気よく教えてくれているけれど詠唱しても魔法陣を使っても魔法が上手に使えない。しかしオリヴィアはオリヴィアだけしか出来ない方法で、魔法を使う術を見つけた。それが――歌だ。歌うことによって魔法が使える。それでも姉のような魔法には程遠いのだけど。



「……なに?」


 物思いに耽っていたオリヴィアは、強烈な違和感に足を止めた。頭の上のリスも騒がしくキィキィと鳴き始めている。不安げにうさぎが足元にすり寄ってきた。

 境界線を越えたわけではない。オリヴィアにはそれが分かっていた。獣の臭いがするわけでもない。でも、異質な何かがこの先にはある。凄まじい程の存在感が森の奥から漂ってくる。


 森の奥から走ってくる動物が見えた。顔馴染みのきつねだ。

 きつねはオリヴィアのスカートの裾を口にくわえ、ぐいぐいと引っ張って何かを促そうとしている。


「ついてきて欲しいの?」


 オリヴィアの問いに、そうだとばかりに更にスカートを引っ張られる。きっとこの存在感の元に連れていく気なのだろう。

 何があるか分からないけれど、この森の動物達は友達だ。危ない事があるわけでもないだろう。そう判断したオリヴィアは駆け出していた。

 穏やかな風に血の臭いが混ざっていた。




 きつねに先導された先、幾つかの木が折れてしまっている。その木の上に蹲っているのは――竜だった。黒くて大きな竜。大きいとは言っても、まだ子どもの竜だと思った。成竜はとても大きいんだよと、母が教えてくれたから。

 ごう、と吹いた強い風にオリヴィアの髪が乱された。


 黒竜は体中から血を流していた。羽は折れているようで、変な方向に曲がっている。周りの状況から墜落したのかとも思ったけれど、ただそれだけではなさそうだ。

 オリヴィアが近付くと黒竜が警戒したような唸り声をあげる。その金瞳は傷のせいか深く濁っていた。


「怪我をしたのね。大丈夫よ、わたしが治してあげる」


 黒竜を取り囲む動物達が、オリヴィアの言葉を受けて一斉に鳴き声をあげる。きつねにうさぎ、たぬきに熊、リスや小鳥や鹿達も黒竜を心配しているようだとオリヴィアは思った。


「あなた、きっと優しいひとなのね。この子動物達がずいぶんなついているもの」


 オリヴィアは黒竜の傍らに膝をついた。傷ついて折れてしまった爪に両手を添える。

 そして――歌った。



 歌声に魔力が乗る。

 オリヴィアのピンクゴールドの髪が舞い上がった風に遊ばれる。


(治りますように。痛いのが消えてくれますように)


 オリヴィアは願いをこめて、ひたすらに歌った。

 黒竜の周りを囲む動物達が身を伏せて、耳を澄ませている。


 歌声が森に響く。魔力を籠めた歌は金色の粒子となって黒竜に降り注いだ。柔らかなその光に、黒竜から溢れ出る血が止まる。傷口が徐々に塞がっていく。折れていた羽が戻っていく。

 尚もオリヴィアは歌う。

 注がれる金の光はその強さを増していくばかり。黒竜はいつしか警戒心を無くしたのか、悠然とその場に横たわっていた。心地よさげにごろごろと喉を鳴らすばかりだ。

 オリヴィアが握っていた爪も綺麗に再生されていた。


(もう少し。もう少しで全部……!)


 オリヴィアは歌う。

 喉に痛みを感じても、声が掠れてきても、ただ目の前の黒竜を癒す事ばかり考えて。


 黒竜がオリヴィアを見つめた。

 その瞳は未だに霞んでいるけれど、もう濁ってはいなかった。黒竜がその手をオリヴィアに伸ばす。壊れ物を扱うような優しい仕草に、オリヴィアが笑みを浮かべる。ざらざらとした独特の掌に、オリヴィアは頬を擦り寄せる。その仕草に金の瞳がすがめられた。

 黒竜はオリヴィアの治癒の歌で、輝きを取り戻していく。鱗のひとつひとつまで光を帯びているようで、美しいとオリヴィアは思った。


 その時だった。唐突に前触れもなく――歌が途切れた。


 魔力を使い果たしたオリヴィアがその場に崩れ落ちる。呼吸は荒く、開閉する口からは何の声も聞こえてこない。


 動物達が慌てたようにオリヴィアに駆け寄った。濡れた鼻先で頬を押したり、震える手を舐めたりしている。そして気遣っているのは黒竜もだった。

 すっかり傷の癒えた両の掌にオリヴィアを抱える。鋭い爪で傷つけないようにか、その手つきは非常に繊細なものだった。



 そしてオリヴィアは――声を失った。

 黒竜を救う事の代償に。

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