終章 それはたぶん天使のしわざ
第33話
翌日の夕方遅く、ユーグはパレ・ロワイヤルの一室にいた。室内はすでに煌々とシャンデリアが灯され、窓ガラスやふんだんにあしらわれた鏡に映えてきらめいている。
予想ほど長時間待たされることもなく、ユーグは侍従に呼ばれた。執務室では摂政公が秘書官に書類を渡して指示を与えているところだった。幼い国王に代わり、懸案と借金まみれのこの国を実質的に率いている摂政公フィリップ・ドルレアンの日常は、超絶的に多忙を極める。
しかし彼は仕事のみに生きているわけではない。朝から淡々と激務をこなしながら、遊興にもけっして手を抜かない。五時に執務が終われば仕事はすっぱり忘れ、とことん豪勢に遊ぶ。
昨年、老いたる先王が亡くなると、太陽王の長すぎた黄昏にうんざりしていた市民たちは、盛大に花火を打ち上げて祝った。
ヴェルサイユから宮廷が戻ってきたパリは、これまでの鬱憤を晴らすかのように奢侈と享楽に明け暮れている。とりわけ摂政公の夜食はその豪華さと淫靡さで群を抜くとたいへんな評判で、摂政公が自ら腕をふるう豪華食材を使った料理も目玉のひとつだ。
もっとも、摂政公が自ら考案した新メニューを無理やり試食させられているユーグに言わせれば、豪華な食材を使ったからといって必ずしも美味しい料理ができるとは限らないのだが。
秘書が引き下がると、摂政公はにこにこしながらユーグを手招いた。
「やぁ。いつもながらうっとりするほど綺麗だねぇ」
「そういうことは女性に言ってください。特にあなたの奥方に」
「あのひとは私がお世辞を言うと眉間にシワを寄せるんだ。むやみに妻のシワを増やすのは夫として不本意だからね。やれやれ、やっと今日の仕事が終わったよ。緊急の用件で夜食を邪魔されないといいのだが。──ところで、例の件は済んだのかな?」
ユーグが慇懃に会釈すると、摂政公はますます笑み崩れて両手をこすり合わせた。
「そうかそうか、それはよかった。で、〈すみれの王冠〉は?」
ユーグは隠しから取り出した指輪を机の上に静かに置いた。それはクロエが嵌めていた母の形見の指輪だった。
「……おや。思っていたより地味な拵えだな。──これ、本当に紫ダイヤなのかい」
「いいえ、それはサファイアです」
「じゃあ偽物じゃないか!」
「正真正銘の本物ですよ。紫色のダイヤモンドなどというのは、ただのホラ話にすぎません」
きっぱり断定すると、摂政公は目をぱちくりさせた。
「ホラ話とはどういうことだ」
「先王陛下が結婚前の故ヴュイヤール侯爵夫人、ベアトリス・ド・ラ・リュシドール嬢に贈ったのは、最初から紫色のサファイアだったんですよ。控えめで慎ましいベアトリス嬢は、先王から賜った指輪を見せびらかすことも周囲に触れ回ることもなく、ただ大切に肌身離さず持っていた。ところが、彼女の姑となった先の侯爵夫人カトリーヌにはそれが歯がゆくてたまらない。先王が特別な想いを込めて贈った品なのに、知る人さえほとんどいなかったんです。カトリーヌはほんのちょっとした虚栄心から、先王が贈ったのは非常に珍しい紫色のダイヤモンドだと、嘘──というよりホラを吹いたんです。噂は残念ながら彼女の目論見ほどには広がらず、年月が経って彼女自身もそんな噂を流したことをすっかり忘れてしまった。今回の騒ぎでようやく思い出したんです。他愛もないホラ話にすぎませんでしたが、それでもいくばくかの人の印象には残ったんでしょう。それがこの曖昧な話の出所です」
しばし考え込み、摂政公はゆっくりと頷いた。
「なるほど。では、これが真の〈すみれの王冠〉というわけだ。──確かに、野に咲くすみれは華やかさとはほど遠い。だが、どうにも忘れがたい風情がある。……先王は、摘み取って投げ捨ててしまった
摂政公はユーグに指輪を返し、いかにも無念そうに溜息をついた。
「ぜひとも王冠に紫ダイヤを飾りたかったんだが、しかたない。こうなったらせめて透明度が高くて大きなダイヤモンドにするよ。実はもう目をつけているのがあってね。見せてもらったが、なかなかいいものだった。やはりあれを購入しよう。うん、買ったら記念に『
ユーグは摂政公に冷やかなまなざしを向けた。
「……知っていましたね」
「ん? 何をだね」
「とぼけないでください。あなたはこれがただのサファイアであることを最初から知っていた。もし本当に紫色のダイヤモンドなら途方もない金額だ。購入記録が残っていないはずはない」
黙ってユーグを見返していた摂政公が、にんまりと笑った。
「ふむ。確かに購入記録はなかったよ。サファイアすら新規に購入した形跡がない。それはもともとあった宝石を加工し直して作られたものなんだ」
「つまり、僕に〈すみれの王冠〉を探せと命じたことには別の目的があった。あなたは最初から
ユーグに睨まれた摂政は、もじもじと椅子の上で身じろぎした。
「……ご婦人方から宝石泥棒の横行に難儀していると訴えがあったんだよ」
「女優のシャルロットですか。それとも最近お気に入りのパラベール侯爵夫人とか」
「うん、まぁ、そのあたりだ」
毎月のように情婦を取っかえ引っかえしている摂政公はしれっと頷いた。ユーグは眉をぴくりとさせ、怒気のこもる低い声で呟いた。
「僕はあなたの指示で動くこと自体に不満はありません。ですが、こういう騙し討ちみたいなことをされるとさすがに腹が立ちます……!」
「まぁまぁ、そう怒らないでおくれ。なるべく信憑性を出したくてね。カラス夫人に変に警戒されてもまずいし、できるだけ執着心を煽りたかったんだ」
「ラファエルには最初から真相を明かしていたそうじゃないですか」
「そりゃ仕方ない。万が一何かあったときにはおまえを守ってもらいたいし」
「自分の身くらい自分で守れます!」
「もちろんわかっているとも」
どうにかご機嫌をとろうと摂政公は席をたち、むっつりしているユーグの周りをいじましくうろうろした。
「おまえにはいろいろと危ないことをしてもらっているからねぇ。心配でたまらないんだよ。かといっておまえ以外にはなかなか全幅の信頼を寄せるというわけにもいかなくてだね……。勘弁しておくれ。な? おまえの
「もうけっこうです」
「そう怒ることないじゃないか。おまえだってけっこう楽しい思いをしたんだろう?」
「何のことですか」
不審げな目を向けると、摂政公はしたり顔でにやぁとした。
「可愛い小鳥さんを捕まえたと聞いたぞ」
「捕まえてません。だいたい僕みたいな根無し草、とまり木にすらなりませんから。──では失礼します。馬鹿騒ぎも大概にしないと早死にしますよ」
「その口の悪さは誰に似たんだね……」
「さて、誰でしょうね」
ユーグは凄絶な笑みを浮かべると大股に部屋を出て行った。残された摂政公は、ほぅと溜息をついた。
「……まったく、二十年前の私にそっくりだよ」
頭を振って微笑むと、摂政公は夜の歓楽の支度を思い出していそいそと部屋を出た。
ユーグは、廊下で従者の姿を見つけるなり不機嫌な声を上げた。
「帰るぞ、ラフ」
「何を怒ってらしゃっるんです?」
「別に!」
黒服に黒眼鏡、黒髪を赤いリボンでまとめた影のような従者は、眼鏡の奥でくすりと笑った。
「あなたって時々駄々っ子みたいですよね」
「うるさい」
ぴしゃりと撥ねつけたユーグの目の前に、すっと女官がひとり現れた。腰をかがめ、慇懃に礼をする。
「ムッシュウ・アスランにお部屋までお越しいただきたいと、マダムが」
「マダム?」
「はい。パラティナ公女殿下がお待ちでございます。こちらへ」
軽く息をのみ、従者を横目で見る。仕方がないと言いたげに、ラファエルは肩をすくめた。ユーグはひとりで部屋に入った。
あかあかと暖炉が焚かれた快適なサロンでは、書き物机に向かって恰幅のよい白髪の女性が熱心に何か書いていた。女性は立ち上がり、蛇腹になった机の蓋を閉じた。どうやら手紙を書いていたらしい。ユーグはうやうやしくお辞儀をした。
六十代の半ばと思われる女性は、大儀そうに長椅子に座った。
「しばらくぶりね、ユーグ」
「マダム」
「……パリの街は嫌いだけど、冬だけはやむを得ないわ。サン・クルーの城は寒すぎて」
女性は呟き、閉じた扇子をもてあそんだ。彼女はエリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール。故国での名はリーゼロッテ・フォン・デア・プファルツと言い、亡きオルレアン公フィリップ一世の後妻で現在の摂政公の母である。大御世にはヴェルサイユ宮殿で
「息子から聞いたのだけれど、〈すみれの王冠〉とかいう宝石があるそうね。見せていただけるかしら」
リーゼロッテは渡された指輪をしげしげと見つめた。
「……先王陛下が若い女官に秘かに贈られたとか。何でもルイーズ──ラ・ヴァリエール嬢によく似ていたそうだけど?」
「そのように聞いております、マダム」
「彼女は本当に可愛らしい方でした。わたしはルイーズととても仲がよかったの。あの方が修道院に入られたあと、俗世に残された子どもたちはわたしが育てたのです。わたしの息子たちと一緒にね……。あの方は、本当に純真で優しくて。大王陛下を心から愛していた。ただ、純粋に愛していたの。野心などかけらもなく……。この
しばらくリーゼロッテは回想にふけるように黙っていた。
「……大王陛下は目先の華やかさに惑わされて、大切なものを捨て去ってしまったのだわ。時が流れ、自らの老いを自覚したときに初めてそれに気付いたのでしょう」
リーゼロッテは指輪を持ち上げ、内側に彫られた文字を小声で読んだ。
「『過ぎゆかざるものは愛のみ』。……皮肉なものね。ひとがそのことに気付くのは、いつもそれを失ってしまってからだなんて」
ユーグは跪き、指輪を受け取った。意思の強い、頑固そうな顔つきのリーゼロッテの表情が、つかのまやわらぐ。
「失う前にあなたが気付くことを、祈りますよ」
「──ありがとうございます、マダム」
ユーグが退出するときも、リーゼロッテは遠い過去に想いをはせているようだった。
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