第29話

 クロエは唖然とした。あまりのあくどさに言葉も出ない。

「まったく、お嬢様ならお嬢様らしくおとなしくしてりゃいいのに、とんだじゃじゃ馬だよ。お蔭ですっかり予定が狂っちまったじゃないか。あんたにはどうでも宝石の在り処をはいてもらわなきゃ」

「そんなもの、知らないわよ!」

 頭に来て怒鳴ると、ブランディーヌは煩わしげに銃口を突きつけた。

「そうかい? 婆さんは言ってたよ。〈すみれの王冠〉はあんたが持っていると」

「いい加減なこと言わないで! そんな宝石、持ってません」

 ブランディーヌはムッとしたように眉をつり上げた。

「意地を張るのもいいかげんにしな! おとなしく宝石を渡せばあたしはこのまま消えてやったっていいんだ。そうすりゃあんたも兄貴も命拾いできる。あたしは何も無闇に人を殺したいわけじゃないんだよ」

「だから本当に知らないのよ!」

「ふん。だったらあんたは用なしだね。好き者どものオモチャになって、ボロ雑巾みたいにされちまうがいいさ。あんたみたいな子どもっぽい体つきの女を弄ぶのが大好きな変態は、いくらでもいるんだから」

 がたんと馬車が大きく揺れて止まった。銃を突きつけたままブランディーヌが冷たく命じる。

「出な」

 侍女──手下の女によって、乱暴にクロエは馬車から引きずり降ろされた。鋭い痛みが足首に走る。ズキンズキンと音をたてて傷めた箇所が疼き出した。

「とっとと歩け」

 低い声で女が脅す。いや、女ではない。間近でよくよく見ればわかる。細身ではあるが、間違いなく男だ。陰険な目付きをした女装男は、いらだたしげに舌打ちをすると、足をもつれさせるクロエを引きずって歩きだした。振り向いたブランディーヌが作り声で嘲った。

「我が家にお招きするのは初めてだったわね? ここがわたしの『お家』よ。素敵でしょ?」

 悪意のこもった忍び笑いを洩らし、ブランディーヌは鍵を開けて中へ入った。真っ暗な中、火打金を打つ音がして蝋燭が灯る。埃とよどんだ空気の匂いで息が詰まりそうだ。打ち捨てられて久しい廃屋らしい。

 ギシギシ軋む廊下を邪険に引きずられ、クロエは奥に連れ込まれた。室内はそれなりに整えられており、かろうじて人の住む気配がある。ブランディーヌは燭台でぐるりと室内を照らしながら、芝居がかった口調で続けた。

「殺風景でごめんなさいね。もっと快適に整えたかったのだけど、衣装や馬車に思いのほかお金がかかってしまって、手が回らなかったの。どっちみち仮の宿だから、とりあえず住めればいいわよね」

 ブランディーヌが目配せすると、女装の手下はクロエを古びた長椅子の上に突き飛ばすように投げ出した。クロエは足首の痛みに顔をしかめながら、室内の蝋燭に火を移しているブランディーヌを睨んだ。

 燭台を置き、ブランディーヌは見せつけるようにゆっくりとした動作で黒い天鵞絨ビロードの仮面をつけた。片手を腰にあて、高慢に顎をそらして振り向いた姿は、確かにあの夜に見た仮面女そのものだ。

「さて、改めて話し合うとしようかね」

 優しげな作り声が一変し、冷酷な声に凄味が混じる。兄の前でしとやかに微笑んでいた、おっとりと内気そうな姿とはまるで別人だ。クロエは精一杯の皮肉を女に向かって投げつけた。

「たいした女優ね! 舞台に出てみたらどう」

 仮面のブランディーヌはニッと口角をつり上げた。

「お褒めにあずかり光栄だよ。──さぁ、これが最後の機会。おとなしく〈すみれの王冠〉を渡すんだ。そうすれば、きれいな身体でお家に返してあげる」

「言ったでしょう、そんなものは知りません」

 ブランディーヌは大げさに肩を竦めた。

「まったく強情な小娘だよ。自分の立場がわかっているのかね? 今まさにあんたは名誉を失おうとしているんだよ。苦界に沈んで二度と出て来られなくなってもいいのかい」

「本当に知らないのよ! どうして信じてくれないの」

「貴族なんて輩は平気で嘘をつく連中揃いだからね。腹の中は真っ黒、舌は嘘で真っ赤だ。うっかり信じてバカを見るのは、いつだってあたしら平民なんだから」

 ブランディーヌは蝋燭を一本手にとり、クロエに突きつけた。

「その可愛い顔をちょっぴり焼いてあげようか。あたしの肩にはね、百合の紋章があるんだよ。盗人の押される焼き鏝さ。どんなに痛いか試してみるかい」

 炎を近づけられ、反射的にのけぞる。狭い長椅子ではどこにも逃げ場はない。ましてやこの足首では走ることも不可能だ。恐怖におののくクロエの顔を、ブランディーヌは薄笑いを浮かべて眺めた。

「まぁ、いいわ。顔に傷をつけちゃ高値で売れなくなるからね。〈すみれの王冠〉が手に入らないなら、せめて金貨でもたんまり積んでもらわなきゃ割に合わないよ」

 ブランディーヌが屈んでいた身体を起こすと部屋の扉が開き、御者が入ってきた。三角帽トリコルヌを脱ぎながらクロエに嘲りの視線を浴びせたのはガストン・ダリエだった。

「まだ吐かないのか」

 ブランディーヌは肩をすくめた。

「とことん強情なのか、もしかしたら本当に知らないのかもね。──チッ、婆さんの口からでまかせかい。まったく、孫にまで嘘をつくとはねぇ」

(本当に、おばあさまはそんなことを言ったの……?)

 確かに祖母は頑固で気難しく、扱いにくい人物だ。きらびやかなものを愛してやまない贅沢好みでもある。だが、その場しのぎの嘘をつく人ではない。それなら、自分で気付かないうちに〈すみれの王冠〉を持たされていたのだろうか。

 必死に考えを巡らせたクロエは、ふと自分の指に嵌まった指輪に目を留めた。母の形見のサファイア。亡くなるまぎわにこれを自分に渡し、『大切にしてね』と囁いた母の、はかない微笑が頭をよぎる。

(……もしかして)

 突然、ぐいと手を掴まれた。ブランディーヌが乱暴に指輪を抜き取る。

「何するの!」

「ついでにこれももらっておくよ。ダイヤモンドには負けるけど、サファイアも悪くない」

「お願い、それだけは取らないで。お母様の形見なのよ!」

「贅沢言うもんじゃないよ。あたしなんか母親の顔も知らないってのに」

 ブランディーヌは指輪を蝋燭にかざした。

「ふぅん、綺麗なすみれ色じゃないか。サファイアなのが残念だよ。ああ、これが紫ダイヤだったらねぇ。こんなちっぽけでもすごい価値があるんだけど……」

 これが紫ダイヤだったら。

(まさか……!)

 指輪を嵌めて矯めつ眇めつする仮面の女を、クロエは息を呑んで凝視した。炎を反射してきらめく、紫色のサファイアを。

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