第18話

 寝返りを打つと、光が瞼を透かした。

「んっ……」

 眩しさに顔をしかめ、無意識に手をかざす。違和感に目をしばたき、クロエは横たわったまま室内を見回した。やわらかなパステル・カラーに淡い花模様を散らした壁紙で囲まれた広い部屋には、優美なかたちの脚つき家具が品よく置かれている。

 クロエは白塗りに金箔張りの渦巻き飾りがついた優雅な寝台に横たわり、たっぷりと羽根のつまった枕に頭を載せていた。寝具はすべて肌触りのよいすべすべした絹だ。

 飛び起きたクロエは、思いっきり頭を殴られたような衝撃に呻いた。

「……いっ、たぁ……」

 頭の内側で鐘楼の鐘がガランガランと鳴り響いている。クロエは頭を抱えて枕に突っ伏した。襲いかかる頭痛に身もだえしていると、部屋の扉が開いて女性の声がした。

「あら、お目覚めね。よかったわ」

 びくっと顔を上げる。入り口に立っていたのは仮面女ではなかった。少なくとも仮面はつけていない。それとも仮面を外しただけなのか……?

(……ううん、違うひとだわ)

 くちびるは健康そうな薔薇色で、薄化粧を施した顔は一瞬頭痛を忘れるほど美しかった。すらりと細身でありながら、匂いたつようになまめかしい。成熟した、おとなの女だ。

 身に着けているのは部屋着や散歩用として近頃流行りだしたローブ・ヴォラント。胴衣コルサージュのない、ふわふわしたルーズフィットドレスだ。淡い緑色のモスリンに小花柄を刺繍して、肘丈の袖からはたっぷりとレースが覗いている。

 女は振り向き、背後で慎ましく控えていた侍女ににこやかに指示した。

「何か温かい飲み物を持ってきてくれる? 紅茶、そう、ババロワーズがいいわ。わたしの分もお願い」

「かしこまりました」

 若く見目よい侍女はうやうやしく腰をかがめて引き下がった。女は寝台に歩み寄り、にっこりとクロエに微笑みかけた。

「ご気分はいかが?」

「……最悪です」

 あまりの頭痛に、クロエは思わず本音をもらしてしまった。

「でしょうね。無理しないでゆっくり休んで。安心なさい、ここは安全よ」

「あの……。あなたはどなたですか? どうしてわたしはここに──」

「わたしはアドリエンヌ。ここはわたしの家よ。ゆうべのことは覚えてる?」

 クロエはずきずきするこめかみを押さえ、眉をひそめた。

「え、っと……。わたし、捕まってどこかへ連れて行かれる途中に逃げ出して……、それから──、ああ、そうだわ。誰かに口を塞がれて……」

 アドリエンヌは寝台の端に座り、クロエの手を両手で優しく包んだ。

「大丈夫、心配することは何もないわ。寝間着に着替えさせたのもわたしと侍女だから」

「あの……。誰が助けてくれたんでしょう。ご存じですよね……?」

「ええ、もちろん。そのひとからあなたのことをくれぐれもよろしくと頼まれているの」

 アドリエンヌは悪戯っぽく笑った。若葉色の瞳が少女のようにいきいきときらめく。知性と遊び心が同居した感じのよい微笑みに、クロエは好感を抱いた。

「どなたですか? お礼を言わないと……」

「そのひとが来るまでひ・み・つ。そのほうが楽しみでしょ?」

 そこへ、侍女が飲み物の載った盆を掲げて入ってきた。

「さ、まずはこれを飲んで。バイエルンの薄荷水ババロワーズがお好きだといいのだけれど」

 東洋の絵柄があしらわれたカップを、クロエは喜んで受け取った。ババロワーズは熱い紅茶を植物のシロップで甘く味付けした飲み物で、摂政公の母君が故郷から伝えたものだと言われている。

 祖母のカトリーヌはこれが大好きなのだが、茶葉がかなり高価なのでそうそう頻繁には飲ませられない。クロエは久しぶりに味わう紅茶をゆっくりと楽しんだ。

「あとで軽い食事をとりましょう。頭痛が収まるまでもう少し休むといいわ」

 親切な勧めに素直に頷き、クロエは横になった。アドリエンヌは侍女を残して部屋を出て行った。うとうとしながらクロエは昨夜最後に見たはずの光景を思い出そうとした。

 そうだ。月を見たような気がする。冴々と輝く月を。残念ながら思い出せるのはそれだけだった。

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