第5章 すみれは深い霧の中
第17話
気がつくと後ろ手に縛られて、粗末な寝台に転がされていた。足首にもロープが巻かれ、シーツの切れ端か何かで猿轡をはめられている。 壁に取り付けられた燭台で、たった一本の獣脂蝋燭が燃えていた。
小さな寝台の他、家具らしきものは鏡つきの洗面台だけ。それもかなり古ぼけて、鏡にはひびが入っている。天井が斜めになっているところを見ると、おそらく屋根裏だろう。どうにか縄目を解こうと懸命に引っ張ったりひねったりしてみたが、まったくゆるむ気配がない。
何としてもここから逃げなければ、脅迫材料にされてしまう。それどころか命も危うい。ダリエたちには自分を返す気など最初からないのだ。
がちゃがちゃと鍵を開ける音に、クロエは慌てて入り口に背を向け、気絶のふりをした。扉が開き、あきれたような女の声がした。
「まだおねんねかい。手加減してくれなきゃ困るよ、あんた。腹に痣でも残ってたらどうしてくれるのさ。客に見せられやしない」
「すまん。ついカッとなっちまった」
弁明するダリエの声が続く。女はフンと鼻を鳴らした。
「まぁ、いいわ。客を取らせるにしても、少し弱らせておいたほうがいいだろうし。おとなしそうな顔して、気の強い娘だからね。せっかく好き者の金づるを連れてきても、あまりひどく暴れられちゃ興ざめだろ」
「酔わせとけば大丈夫さ」
「ともかく、夜が明けないうちにその娘を郊外に移すよ。こんな街中じゃ、うっかり悲鳴でも上げられたら面倒だ」
ダリエが寝台に近づいてくる。暴れたところでどうしようもないが、このままおとなしく連れ去られるなんて冗談じゃない。焦っていると、女がふいにダリエを止めた。
「待ちな、それじゃ目立つ。誰がどこで見てるかわからないからね」
「どうするんだ」
「やっぱり酔わせちまおう。酒を持ってきな。強い奴。ワインより
ダリエが出て行くと、残った女はクロエに向かって嘲りの声を放った。
「狸寝入りはやめな、お嬢さん。あんたが起きてることはわかってるんだよ」
覚悟を決めてそろそろと向き直る。戸口に軽くもたれた仮面の女が腕を組んで笑った。
「あんたもばかだね。お嬢様らしくおとなしくしていれば、こんな目にあわずに済んだのに。あんな情けない兄貴、わざわざ庇うに値しないよ」
クロエは目を怒らせて唸った。こんな女に兄の悪口を言われたくない。
「持ってきたぜ──、おっ、起きたのか」
「猿轡を外しな」
火酒の瓶を受け取った女が命じる。口が自由になるやいなや、声の限りにクロエは叫んだ。
「誰か助け──」
いきなり瓶の口を押しつけられ、酒が注がれる。むせて咳き込むクロエを、にやにやと女は眺めた。
「ど……してこんなこと、するの……、いったい何が目的──」
「あたしはただ、ヴュイヤール家のお宝がほしいだけさ。さっさと差し出してくれればこんな手荒なまね、わざわざしたくはなかったんだけどねぇ」
喉と胃が焼かれる苦痛に涙がにじむ。クロエはかすれ声でわめいた。
「いったい何の話よ!? お宝だなんて、そんなものうちにあるわけないでしょ! うちはね、破産寸前なんだからっ」
「へぇ。〈すみれの王冠〉を知らないと?」
「知らないわよ! 何なの、それ。だいたい今はすみれなんか咲いてな──」
ふたたび瓶の口を押しつけられる。飲むまいとしたが、乱暴に鼻を摘まれ、苦しくて大量に酒を飲み下してしまう。天井や壁がぐるぐると回りだした。食事を取ったのはだいぶ前だ。空っぽの胃に度数の強い
「〈すみれの王冠〉というのはね、紫色のダイヤモンドだよ。去年死んだ王様が、あんたの母親に贈ったのさ」
「だ、大王陛下が……? 嘘よ……、そんなこと、あるわけない……」
寝台の上に座らせられたクロエの身体がふらふらと揺れた。急速にろれつが回らなくなる。力の抜けたクロエの顎を掴み、女は楽しげに酒を注いだ。
「あんたの母親はねぇ、大王の秘密の愛人だったんだよ。もしかしたら、あんたも兄貴も大王の胤かもしれない。なんと名誉なことじゃないか、王女サマ」
女の哄笑が、幾重にも脳髄にこだまする。ダリエはすっかり抵抗力を失ったクロエの腕を取り、乱暴に引き起こした。
顔を隠すように深く
街路を照らす
建物の前には黒塗りの箱馬車が待機していた。ふたりがかりでクロエを馬車に押し込み、仮面の女が同乗した。ダリエが御者台にのぼると馬車は車輪を響かせて走り出した。
眩暈は強い眠気に変わってクロエを襲った。必死で眠るまいとするクロエを、仮面の女は扇子の陰から面白そうに眺めている。
舗装が悪く、馬車は時折大きく揺れた。何度目かにひどく揺れたとき、悪態をつく女の隙をついて馬車の扉を押し開け、クロエは街路に身を投げ出した。背後で女が金切り声を上げる。街路に積もったパリ名物の黒い汚泥は夜の冷え込みですっかり凍っていた。
クロエはふらふらと立ち上がり、細い裏路地に入り込んだ。酔っているせいか、身体の痛みを感じない。裏道には角灯もなく、高い建物に遮られて月光もほとんど射し込まなかった。
壁ではない。もっとやわらかくもの。見上げた瞳に、月光に似た銀の輝きが映る。
茫洋と瞬きしたクロエは次の瞬間、手袋をはめた手で口を塞がれ、真っ暗な路地へと力ずくで引き込まれた。
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