第16話
「──そうは言っても、あなたは顔を知られてるから」
ここで待っててね、と店から少し離れた路上で、クロエはジルベールの肩を諭すように軽く叩いた。
男装したクロエは少年貴公子然として、なかなか決まっている。髪は後ろでゆるい三つ編みのお下げにして深みのある薔薇色のリボンで結んだ。男装はこれが初めてではないので、取ってつけたような違和感もない。
「でも俺、お嬢様をひとりにしたことが姉ちゃんに知れたら殺されちゃいます……っ」
本気で怯えた顔をする少年に、クロエは苦笑した。
「大丈夫よ。ほら、客がどんどん入ってるから店内はきっと混雑してる。隅のほうにいれば目立たないはずよ。ダリエの部屋はわかっているし、合鍵だってちゃんと用意したもの」
クロエは隠しから鍵を取り出し、にんまりした。あらかじめジルベールを通じて店の裏方で下働きをしている少女に接触し、蝋で型をとってもらったのだ。
謝礼としてなけなしの銀貨数枚をつかませねばならず、合鍵の作成にもそれなりに費用がかかったのは正直痛いが、この際やむをえない。
すでに日は落ちて通りは暗く、店も入り口付近は照明が少ない。戸口から目を離さないよう命じ、三々五々賭博場に入っていく男たちの後ろにさりげなく続いてクロエは店に入った。
直談判しに来たときに間取りは把握しておいた。クロエは目立たぬ陰を選んで移動し、ときにはゲームを見物するふりをしながら店内を探った。
いろいろな賭博が行われていた。カードや玉突き、貝の中に入れたコインを当てるもの。どのテーブルも賑わっている。
ガストン・ダリエの姿は見えない。彼が事務室にいるあいだは入っていくわけにもいかないので、クロエは彼が出てくるのをそわそわしながら待った。
店はますます混んできた。時間が過ぎるにつれ、明らかに辻君と思われる女たちも増えてくる。目立たぬように気をつけているのに、そういう女たちはやたら目敏い。
おのぼりさんのボンボンと思われたか、ふいに至近距離から猫撫で声をかけられ、慌てて逃げ出すはめになった。後から考えれば、うまく断ったほうが目立たずにすんだのだが、なにぶん経験が皆無なのでそこまで気が回らない。
ダリエはなかなか現れず、クロエはだんだん焦ってきた。あまり長いこと勝負もせずにうろつき回っていると不審に思われてしまう。しげしげ見られては変装がバレるおそれもある。
事実、目付きの鋭い男にさっきから見られている。明らかに給仕ではないが、テーブルのあいだを歩き回ってさりげなく目を配っている様子から、店の人間であることは確かだ。
ついに男がクロエに向かって足を踏み出した。冷や汗がどっと噴き出す。焦って左右を窺った瞬間、店の奥からダリエが姿を現した。店員の視線が逸れた隙にクロエは人込みにまぎれた。
さりげなく覗いてみると、店員らしき男はダリエと何か話していた。ふたりともこちらに背を向けている。
チャンスだ。
クロエは客のあいだをぬうようにして扉へ歩み寄り、細く開けた隙間から奥へと滑り込んだ。廊下を駆け抜け、目指す部屋の把手を掴む。鍵はかかっていない。
室内では小さな暖炉が静かに燃え、書き物机の上には枝つき燭台が置かれて室内を照らしていた。クロエは隠しから合鍵を取り出すと、慎重に鍵穴に差し込んだ。ひねったとたんに引っ掛かって青くなる。
「ど、どうしたのよ、いったい」
クロエは焦って鍵をガチガチ回してみた。多少手応えはあるのだが、引っかかってそれ以上動かないのだ。
「んもうっ、頼むわよっ」
クロエは押し殺した叫びを上げ、両手で鍵を掴んで渾身の力を込めた。
ガチン!
ひときわ大きな音がして鍵が回る。よろけて尻餅をついたクロエは、急いで起き上がると抽斗に飛びついた。中には借用書の束と、いくつかの小箱が入っていた。まずは兄の偽署名が入った借用書を探し出し、引き裂いて暖炉に突っ込む。
小箱には黄金作りの立派な指輪やダイヤモンドのカフスボタンなど、換金できそうな小物が入っていた。負けが込んだ客から借金のかたに取り上げたのだろう。あるいはオーレリアンと同じように、酔わせて盗み取ったのかもしれない。
ふと、クロエは抽斗の奥に何かがあることに気付いた。
そっと引き寄せてみると、それは寄木細工の銃身と真鍮を嵌め込んだ銃床を持つ、美しいピストルだった。ずっしりと重いピストルを両手で持ち、まじまじと見つめる。
「これ……、お父様の……?」
銃の手入れをする在りし日の父の姿が鮮明に瞼に浮かぶ。まだ家に余裕があった幼い頃。射撃が得意だった父が庭に並べた小さな標的をひとつ残らず打ち落とす様を見て、兄と一緒に手を叩いて歓声を上げたものだ。
「どうして、これがここに……?」
この拳銃は宝石類といっしょに強盗に盗まれたはず──。
「まさか……」
強盗犯は、ダリエ……!?
廊下から話し声と足音が聞こえ、クロエは我に返った。慌てて周りを見回したが、隠れ場所を見つけるより前に扉が動く。ピストルを突っ込んだ抽斗を閉め、机の下に潜り込むのが精一杯だった。
机の前には大きな安楽椅子が置かれていて、その間から
心臓は早鐘を打ち、こめかみがずきずきした。口許を押さえながら、クロエは隙間から女の様子をそうっと窺った。
女は暖炉の前に立って手を暖めているようだ。結い上げた髪は黒か黒褐色。髪留めにあしらわれた宝石が蝋燭の灯を反射してキラキラ輝いている。
「思ったよりしぶといわ」
艶やかだが険のある声音で女は呟いた。どこかで聞いたことがあるような気がしたが、すぐにわからなくなってしまった。
「焦るなよ、もう一息さ」
なだめた声はダリエのものだ。振り向いた女を見て、クロエはぎくりとした。女は黒い
羽根とレースで縁取られた仮面は、眼の穴の周囲は様々な色合いの宝石がちりばめられている。左側の頬骨の辺りにつけぼくろのようにあしらわれているのはダイヤモンドだろう。豪華な仮面だが、
仮面に隠されていない頬は白く、暖炉の熱でかすかな薔薇色をおびていた。くちびるは毒々しいほど赤く艶やかだ。仮面の女は暖炉に身をもたせかけ、汚い言葉でひとしきり罵詈雑言を吐いた。
格好だけ見れば貴婦人のようだが、育ちはよくないらしい。それでも少しは気が晴れたのか、女は蓮っ葉な口調で続けた。
「ところで例の小娘は? まだこの辺をうろちょろしてんのかい」
「いや、見なくなった。さすがに諦めたんだろう。貴族のご令嬢にしては気の強い娘だ」
含み笑う声にクロエはぞっとした。話題に上がっているのは間違いなく自分のことだ。男の声音にはどこかフロンサック公爵と相通ずるものが感じられた。女は大きく舌打ちした。
「まったく、目障りったらないよ」
「いっそのこと誘拐でもしちまったらどうだ? 身代金として例のお宝を要求すれば、いくら後生大事にしまい込んでても差し出すだろうぜ」
女はダリエの提案にしばし考え込み、口許をゆがめて頷いた。
「そうね。拉致ってとっとと始末しちまおう。どのみち邪魔だし」
冷酷な女の声に血の気がひく。
「待てよ。ただ殺すのはもったいない。貴族様のご令嬢、しかも金無垢の処女なんだろ? まぁ、年頃にしちゃあ発育不良だが、子どもっぽい女が好みっていう御仁もこの街には大勢いるからな」
緊迫した状況にもかかわらず、発育不良と言われて思わずムッとする。
「まさかあんた、手を出す気じゃないだろうね」
「ばか言うなよ、俺は商品には手をつけねぇさ。好みでもねぇしな」
ダリエは立ち上がり、暖炉の側で女を引き寄せてうなじに舌を這わせた。女は頭を反らしながらクスクス笑った。せわしない衣擦れや接吻の音がしばらく続き、口を両手で押さえたクロエは、ぎゅっと目をつぶって机の下で赤面していた。
そのうちに女が甘えるように囁いた。
「ねぇ、待って。シャンパンくらい飲ませてよ。それに、何もこんな殺風景な部屋ですることないじゃない」
「それもそうだな」
ダリエは頷き、女の細い腰を抱き寄せて戸口へ向かった。扉の開く音にようやく安堵してそろそろ目を開けると、視界にネズミが飛び込んで来た。痩せたドブネズミが、真っ正面からジッとクロエを睨んでいる。飢えきった目が赤くギラギラと輝いていた。
かろうじて悲鳴は呑み込んだものの、反射的にのけぞった頭が机の板にぶちあたる。
ごつん、と鈍い音が室内に響いた。
「……何だ?」
立ち止まったダリエは乱暴に安楽椅子をどけ、縮こまるクロエを引きずり出した。
「おやおや、ずいぶんでかいネズミが隠れてたもんだ。──ムッシュウ、ここで何をしていらっしゃるので?」
ふざけた口調だが、腕を掴むダリエの力は容赦ない。クロエは必死に顔をそむけながら作り声で言い訳した。
「ト、トイレを探していて迷い込んでしまったんです! 何しろ田舎者なもので、恥ずかしくてとっさに隠れただけなんですよ、勘弁してください」
歩み寄った仮面女がクロエの顎を掴み、無理に引き起こした。仮面の穴から覗く薄茶色の瞳は冷たく、そして狡猾だった。
しげしげと眺めた女は、突然弾かれたように笑いだした。
「こいつは傑作だねぇ! わざわざ出向いてくれるなんて」
「何と、ヴュイヤールのお嬢さんか! へぇ、気付かなかったぜ。男装して潜り込むとはいい度胸をしてやがる」
「離してっ」
「ふーん。なかなかさまになってるじゃないか。そうだ、男装して客を取らせるってのはどうだ? 倒錯的でけっこうそそられる客がいるに違いない」
「離してってば!」
無我夢中で暴れた弾みで、ダリエの顎に頭突きを食らわせる格好になる。男がひるんだ隙に逃げようとしたが、扉の把手を掴む暇もなく後ろからお下げ髪を力任せに引っ張られた。
頬が鳴り、視界に星が飛ぶ。よろけたとたん拳が腹にめり込んだ。
「……手間かけさせやがって」
ドスのきいたダリエの毒づく声を最後に、クロエの意識は途切れた。
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