第15話
翌日、息巻いて賭博場を再訪したクロエは、しかしすげなく追い払われた。
書き慣れた署名など寝ていても書けると軽くあしらわれてしまい、不器用な兄にそんな芸当ができるわけがないと言い張ってもまるで相手にしてもらえない。
それでもしつこく食い下がると、うんざりしたダリエはついに似非紳士面を豹変させて粗暴な素顔を剥きだした。
『営業妨害で当局に訴えますぜ、お嬢さん』
ドスのきいた声で脅し、クロエを店の外に乱暴に放り出した。頭に来て店の扉を拳で叩いていると、ジルベールが周囲を見回しながらおろおろと泣きついた。
「お嬢様~、もうあきらめましょうよぉ。人目もありますから、ねっ。まずいですよ」
何事かと振り向く通行人に気付き、クロエはやむなく引き上げることにした。何の収穫もなく帰宅するのも癪なので、地区担当警視の家に寄ってみた。執務所の控室は苦情や訴訟の相談に来た人たちで混雑していた。壁には様々な告知文がところ狭しと貼りつけられている。
警察の仕事は犯罪だけに限らない。公共の安全と秩序の維持、風紀の取り締まり、道路や街灯、清掃の管理までふくまれるのだ。
延々と待たされたあげく、警視自身は調停に出かけていて不在であることがわかった。それでも貴族であるクロエをむげに追い返すわけにもいかず、留守を守っていた事務官が面倒くさそうな顔で応対した。盗難事件の捜査についてはさっぱり進展が見られないとのことだった。もっとも、盗まれた品物が出てくること自体がそもそも稀なのだ。
いちおう届けは出したものの、もとよりクロエはたいして期待はしていなかった。何でも近頃のパリでは住民の留守をねらった空き巣が頻発しており、貴族の邸宅から宝石類がごっそり盗まれているらしい。
鋭意捜査はしていますから、と言われてはよろしくと応じる他にない。貧乏なほどダメージが深刻なのだから最優先にしてほしかったが、口に出して頼むわけにもいかず、クロエはジルベールを従えて、街区の外れにある屋敷へとぼとぼ歩いて帰った。
自宅へ戻ったクロエは、屋根裏の物置にしまい込んでいた櫃を探った。ガラクタばかりと思ったのだろう、強盗に引っ掻き回された痕跡はない。
櫃の中身は男物の服や小物。数年前に兄が着ていた服だ。見栄えのするものは売ってしまったが、地味めな作りのものは残しておき、必要に応じてジルベールに与えている。
クロエは落ち着いた黒っぽい赤紫のジュストコールを選んで身体に当ててみた。小柄なクロエにはちょうどいい。ウエスト・コートと
また戻ってきて、今度は別の櫃の中からクロエは一振りの剣を取り出した。鞘から抜き放った刀身は薄く鋭い。レイピアよりも柄が長めで単純な、丸い鐔がついた突き剣だ。礼装用にあつらえた見栄えがするだけのオモチャではなく、じゅうぶん実用に耐える。
立ち上がったクロエは呼吸を整え、剣を構えた。かつて
「だめだわ、すっかりなまってる──」
意地になって、スカートの裾を左手でからげて剣をぶんぶん振り回していると、戸口から悲鳴が聞こえた。
「お嬢様、何をなさっているんです!?」
クロエは息をきらしてジゼルに向き直り、まくり上げたスカートの裾をあわてて落とした。
「ちょ、ちょっとした気晴らしよ。修道院にいた時だってよくやってたじゃない……」
幼い頃から男勝りのおてんばで、弟と偽ってオーレリアンの通う
ほどなく女であることがバレてしまったのだが、その師匠の娘がまた男勝りの剣の使い手で、クロエを妹のように可愛がってくれたおかげで、引き続き出入りを許された。
クロエは彼女を『お姉様』と呼び、今でも最高に憧れている。剣も馬も男以上に達者なのに、素晴らしく美しくて優雅なのだ。地方にお嫁に行ってしまって会えなくなったのが、寂しくてたまらない。
修道院の寄宿舎に入れられた後も、何かあるとふつうの女の子のように寝台でしくしく泣いたりする代わりに真夜中の中庭や自室で剣を振り回した。休日で家に帰るたびに塾に顔を出して腕を磨いた。兄はもちろん、師匠や『お姉様』も秘密にしておいてくれた。
しかし結婚が決まって家に戻ると、兄との会話からついに祖母に知られてしまった。厳命されて仕方なく、クロエは剣を箪笥にしまい込んだ。それ以来、いちども鞘から抜いていない。
教会で花婿が急死したあと、手にとってみたことはある。自分でも何をしたいのかよくわからず、ただぼんやりと突っ立っていると、様子を見に来た兄が真っ青な顔になって取り上げ、屋根裏にしまい込んでしまったのだ。
つきん、と胸が痛んだ。その痛みから目を逸らすように、クロエは剣を鞘に収めると足早に物置を出た。急いで後に続いたジゼルが、背後から不安そうに尋ねる。
「お嬢様、まさかおかしなことを考えていらっしゃるのではないでしょうね」
振り向かずにクロエは答えた。
「おかしなことなんて考えてないわ。わたしは大真面目よ。ダリエの賭博場に変装して乗り込むの」
「無茶ですよ!」
クロエは足を止めてジゼルに向き直った。
「目立たずに潜り込むには男装するのがいちばんじゃない? それとも辻君を装った方がいいかしら?」
「よけい危険です!!」
金切り声で怒鳴られ、クロエは首をすくめた。
「冗談よ。その手の女と思われるのは変装だってごめんだもの。だからね、パリ見物に出てきた田舎貴族のふりをするの。実際、大勢いるでしょ。おのぼりさんだと思わせれば、きょろきょろしてたって不審がられることもないわ」
「いいカモだと思われるかもしれませんよ」
自室に戻ったクロエは、地味でくたびれた質感の
「大丈夫よ、これじゃお金持ちにはとても見えないわ」
あっけらかんと笑ってみせたが、ジゼルは納得しなかった。
「危険すぎます、お嬢様。ダリエはまっとうな人間じゃありません。ヤクザ者に決まってます。あんな無頼漢は、いざとなったら何をするかわかったものじゃありません。それくらいのこと、旦那様が頼りない方でもおわかりになるはずです。いくらクロエ様に任せきりでも、こればかりは絶対お許しになりません」
クロエは作り笑いを消した。
「……そうでしょうね。だから黙っていてほしいの。ね、いいでしょう? ジゼル。もちろんおばあさまにも知らせてはだめ」
「でも、お嬢様……」
「お願いよ、ジゼル」
クロエは侍女の手をぎゅっと握りしめた。ジゼルは駄々っ子のように首を振った。
「お嬢様は旦那様を甘やかしすぎます……! 大奥様も旦那様も言いたい放題、やりたい放題で、いつもいつもお嬢様ばかりが割りをくって! それなのに無理にニコニコなさって! あたし、見てると腹が立つんです!」
「わたしは無理してなんかいないわ。本当よ? ただ自分のしたいようにしてるだけ。わたし、本当はとてもわがままなの。どうしようもなく、わがままなの……」
脳裏に浮かぶ薄暗い教会の光景を、きつく目を閉じて追い払う。
「何をおっしゃるんですか。そんなことありません!」
「そんなことあるのよ。だから、ね、見逃して。黙っててくれるわね?」
ジゼルはうるんだ瞳でじっとクロエを見つめた。
「……絶対に、ジルをお側から離さないでください」
「ん、わかってるわ」
クロエは愛情を込めて、ジゼルをぎゅっと抱きしめた。ひとつ年上だが、クロエにとってジゼルは出会ってからずっと妹のような存在だった。気の置けない友人とも思っている。
その大切な存在に気を揉ませてばかりいる。そんな自分が情けなくて、クロエは洩れそうになる重い溜息を胸のうち深くにひっそりと呑み込んだ。
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