第31話

 宝石を詰め込んだ袋をしっかと胸に抱え込み、ブランディーヌは小走りに空き地を抜けた。石畳の道に出て、ようやく足どりをゆるめる。残照がわずかばかり漂う暗い空の下、セーヌの流れが静かに黒く横たわっていた。

 遙か向こうに見える石橋の上では両側にびっしりと立ち並んだ家屋から点々と灯が洩れ、地上の星みたいにきらめいている。

 ブランディーヌは大きく息をつき、橋を目指してふたたび足を速めた。

 大丈夫、うまく行く。野生の獣じみた勘のよさと敏捷さで、これまで幾度となく危機をかいくぐってきた。ブランディーヌにとって、恵まれた容姿と玄人はだしの演技力にも増してその勘こそがいちばんの武器だ。

 敵がいきなり戸口に現れたとしても、考える以前に逃走行動を取れる。そのための逃げ道は、もちろんつねに抜かりなく確保しておく。これまで捕まったのは一度きり。手痛い失敗だったが、看守を丸め込んで移送の途中に逃げ出すことができた。

 もう二度と牢獄になど入るものか。たとえ身ひとつになっても、自由でさえいられればいくらでもやりなおしがきく。

 持ち出すのは宝石だけでいい。小さくてかさばらず、価値がある。いつでもカネに替えられるし、何より宝石さえあればいつも幸福感に包まれていられるから。

 ブランディーヌは物心ついた頃から宝石に取り憑かれていた。キラキラ光る宝石で身を飾った自分の姿を鏡で眺めるひとときこそが至福の瞬間。そのために生きているのだと、ためらいなく断言できる。

 ブランディーヌは歩きながら素早く頭をめぐらせた。とりあえずは、緊急用に確保しておいた隠れ家のひとつに身をひそめよう。隠れ家はあの廃屋の他にもいくつか用意してある。ダリエにもその場所は知らせていない。そんなものがあることさえ、あの男は知らないのだ。

 ダリエに対してはそれなりの情を感じていたものの、けっして溺れてはいなかった。使える限りは使い、報酬も充分に与えるが、必要とあらば即座に切って捨てられる。

 ブランディーヌが真情を注ぐ相手は宝石だけだ。絶対に応えてくれることのない、冷たい無機質な石だけが、狂おしいほどの情熱をかきたててくれる。

 この世で望むものはふたつだけ。宝石と、何者にも束縛されない自由──。

 セーヌの水面には、何艘もの洗濯船が黒いシルエットになって浮かんでいた。人気のない河岸を小走りに歩いていると、後ろから来て追い越した馬車が少し先で止まった。窓が開き、長いかつらをつけた男が顔を出す。馬車の角灯だけでは表情まではわからない。警戒に足を止めたブランディーヌに、男は軽く会釈をした。

「マダム。こんな寂しい場所の一人歩きは危険ですよ。よろしければどこへなりともお送りしましょう」

 慇懃な声音に、ブランディーヌはほくそえんだ。金持ちを気取るために無理して購入した毛皮の縁取りつきマントを着ていてよかった。

 ひょっとして娼婦だと思われたのかもしれないが、別に構うものか。それならそれで利用させてもらうまでのこと。ブランディーヌは馬車に歩み寄り、得意の甘い作り声で囁いた。

「助かりますわ、ムッシュウ」

 馬車の中から差し出された手を取る。顔を上げると思ったよりもずっと若い男が、鋭い笑みを薄く唇に浮かべた。

 ブランディーヌはハッとまばたいた。馬車の奥にもうひとり、無言で座っている人影が見える。頭の中で本能の警報が鳴り響いた。とっさに引っ込めようとした手を掴まれ、ブランディーヌは怒声を上げた。

「放せっ」

「本性が出たな」

 面白そうに男が呟くと同時に背後からふたりの捕方が影のように現れ、両側からブランディーヌの腕を拘束した。掴んでいた手を離し、かつらの男はブランディーヌから宝石の詰まった袋を強引に取り上げた。紐を緩めて中を覗き込んみ、感心したような声を上げる。

「よくよくヒカリモノが好きと見えますな、カラス夫人マダム・コルボー

 彼は袋を奥の席にいるもうひとりの男に渡した。同じように中を覗き、やや年嵩と思える男が首を振りつつ嘆息した。

「やれやれ、今夜はこれをぜんぶ確認するまで家に帰れそうにないな」

義姉ねえさんには僕から伝えておきますよ」

 からかうような口調で言うと、最初の男はかつらを外して馬車から降りた。みごとな銀灰色の髪が、角灯ランテルヌの光にきらめく。こんな時でもなければしばし見とれたであろう美青年だ。あいにくそんな気分にはなれず、ブランディーヌは典雅な青年を恨みのこもったまなざしで睨んだ。

「さて、最後のひとつも返してもらおうか」

 穏やかだが断固とした口調で命じられ、ブランディーヌは指に嵌めていたサファイアの指輪をしぶしぶ外した。青年に指輪を差し出した一瞬、拘束の手がわずかにゆるむ。その機を逃さず、ブランディーヌは身体をひねると同時に川に向かって力任せに指輪を投げた。

「こいつっ!」

 捕方に荒々しく押さえ込まれながら、ブランディーヌは高い哄笑を放った。

「あははははっ、ざまあみろだよ!」

 馬車から身を乗り出したもうひとりの男が、気づかわしげに尋ねる。

「ユーグ。今のはもしかして例の──」

「……いいえ」

 思いのほか冷静に答え、青年は振り向いてにこりとした。

「違います。あれは紫ダイヤなどではありませんから、どうぞご心配なく」

「ふん、そうさ。あれは紫色はしてるけどサファイアだよ! もっともあの小娘にとってはダイヤモンドより価値があったみたいだけどねぇ。あーあ、残念だったね。いくら河をさらったって二度と出てくるもんか。永遠に泥の中さ。いい気味だ!」

 悪しざまに罵るブランディーヌには一瞥もくれず、ユーグは馬車を離れて歩きだした。

「乗っていかんのか?」

「少し歩きます。では、兄さん。あとはよろしく」

 振り向かずひょうひょうと手を振り、青年の姿は闇に紛れた。

 手首に幾重にも縄を巻かれ、ブランディーヌは馬車に押し込まれた。走り出した馬車の中で、二十代の後半かと思われる男がゆったりと微笑した。

「自己紹介がまだでしたな、カラス夫人マダム・コルボー。私は窃盗犯担当のアスラン警視です。これからシャトレ裁判所にてあなたの取り調べを行いますので、どうぞよろしく」

 ブランディーヌは激怒した雌猫みたいに鼻にしわを寄せ、若き警視を睨んだ。

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