第21話

「……確かに、ずっときみを見てた」

「どうしてそんなことをするの! わたし、何か悪いことでもした?」

「きみは何もしていないさ。ただ、心配でね。きみはどうも貴族のお嬢様にしては破天荒というか、無茶苦茶と言うか……」

「仕方ないでしょ! 優雅におっとりのんびり構えてる余裕なんてないの。うちはね、貧乏なのよ。ド・ビンボー侯爵と名前を変えた方がいいくらい貧しいのっ」

 情けなくて涙が出そうだ。気付かれたくなくて、クロエはわざと激しく噛みついた。

「だいたい、あなたには何の関係もないでしょ。わたしはあなた好みの色っぽい人妻じゃありませんから! どうせ胸まっ平らの冴えない発育不良娘よ、放っといてっ」

「まっ平らとは僕は言ってないし、思ってもいない」

 レースに包まれたクロエの胸元を無遠慮に観察し、いたって真面目にユーグは答えた。クロエは頭にきて手近なクッションを鷲掴み、ばしばし彼を叩いた。

「言い訳ならもう少しマシなこと言いなさいよ! いったい何を企んでるの!?」

「わかった、わかったよ。きみの胸がちょっとばかりささやかなのは、全体に痩せすぎだからだ。もっとたくさん食べれば自然と育つ……」

「胸の話はもういいわっ」

 クロエはクッションをユーグの顔にぼすっと押し当てた。ユーグは眉を下げ、降参したと言いたげな溜息を洩らした。

「……僕は、あるひとの依頼で捜しものをしている」

「あるひとって、誰?」

「言えない。少なくとも、今は。──ともかく、その人が探しているものをきみの家族が持っているはずなんだ」

 クロエは眉をひそめた。

「探されるほど気の利いたものなんて、うちにはもうないと思うんだけど……」

「〈すみれの王冠〉という言葉に聞き覚えは?」

 クロエは目を瞠った。

「それ、ゆうべわたしを監禁した妙な仮面女が言ってたわ。大王陛下が結婚前のお母様に贈ったとか何とか……」

 嘲笑った女の台詞を思い出し、クロエはかっとなった。

「……嘘よ、絶対。でたらめだわ。お母様はそんな──」

「きみの母上の名はベアトリスだね? ベアトリス・ド・ラ・リュシドール」

「それは旧姓よ」

「きみの母上は、結婚前に宮廷に出仕していたんだ。知らない?」

「初めて聞いたわ」

「彼女はとあるやんごとない貴婦人の読書係だった。とても美しい人だったそうだね。先王陛下はふとしたきっかけで彼女を知った。そして秘かに思いを寄せた」

「やめて!」

「きみが仮面女から何を聞いたか知らないが、案ずることはない。やましいことはなかったと断言できる。というのも、きみの母上が仕えていた貴婦人というのは、王にもっとも近い女性だったから」

 国王にもっとも近い女性。それが王妃をさすのでなければ、あてはまるのは公式寵姫だ。母が出仕していたというのはいつごろだろう。結婚前というと、兄の年齢からして少なくとも二十年以上前のはずだ。

 その頃の寵姫は……、モンテスパン夫人? いや、彼女はその頃には黒ミサ事件絡みでもう失脚していたはず。

「それじゃ……、マントノン侯爵夫人……?」

 ユーグは頷いた。

「晩年の王は彼女の影響でかなり信心深くなっていた。たとえ心を動かされても、侯爵夫人の侍女には手を出さなかっただろうね。どうやらベアトリス嬢は、王が昔寵愛した女性によく似ていたらしい。……ラ・ヴァリエール嬢は知ってるかい」

「すみれの御方、と言われた寵姫のこと?」

「そうだ。最初の王弟妃の侍女で、大王と王弟妃との不倫をカムフラージュさせられているうちに、本当に寵愛を受けるようになった」

「寵愛を失って修道院に入られたと聞いているけど……」

「ああ。野心家で妖艶なモンテスパン夫人が彼女に取って代わった。ラ・ヴァリエール嬢──哀しみの修道女スール・ド・ラ・ミゼットは今から五年ほど前に亡くなっている。彼女は穏やかな気性で、野心も権勢欲もなく、ただ純粋に王を愛していた。王妃様でさえ彼女を『野に咲く花のような方』と称賛し、彼女が寵姫ならばがまんできるとまでおっしゃられた、とても可憐な女性だったそうだ。きみの母上は、彼女に面影がよく似ていたらしい」

 クロエは混乱して首を振った。

「で、でも……、似てるからって、それだけで……」

「これは想像だけどね。大王は悔いていたのかもしれない。純粋な愛をささげてくれた女性を、冷たくないがしろにしてしまったことを。僕はマントノン夫人が隠棲しているサン・シールへ行って、その辺りの話を聞いてきた。王はいつも彼女が朗読するのを、慈愛のこもった瞳で見守りながら静かに耳を傾けていらしたそうだ。ベアトリス嬢が結婚準備のために宮廷を去るにあたり、王は記念の品としてすみれ色の宝石を嵌め込んだ指輪を贈った。それが〈すみれの王冠〉、世にもまれな紫色のダイヤモンドだと言われている」

 クロエは思わず手のなかの指輪をまじまじと見た。

「わたしが覚えている限り、お母様が持っていらした紫色の宝石はこの指輪だけだったと思うけど……。でも、これはサファイアよ。ダイヤモンドじゃないわ」

「つまりそれは〈すみれの王冠〉ではない。だとすれば、もうひとつ本物がどこかにあるということだが」

 ユーグはすんなりと長い指をかたちよい顎に沿わせて考え込む。その姿に思わず見とれ、クロエは慌てて目を逸らした。ふいにユーグが呟いた。

「サファイアが象徴するのは何だと思う?」

「え。知らないわ……」

「『不滅』、そして『純潔』だよ」

 ユーグは立ち上がり、表情をやわらげてにこりとした。

「さて。ここの女主人に挨拶してこないとね。また後で寄るよ。兄上に手紙でも書いたらどうだい。届けてあげる」

「手紙? そんな必要ないわ。わたし、アドリエンヌさんにお礼を言って家に帰ります」

「いや。きみはしばらくここにいた方がいい。兄上とおばあさまも承知している。ダリエは今でもきみを探しているはずだ。屋敷もたぶん見張られてる」

「でも、家紋の指輪を取り戻さなきゃ! ダリエはお兄様の署名を偽造できるのよ。どう悪用されるかわからないわ」

「それはこっちでどうにかする。きみはゆっくり休むといい。身体から打ち身の痣が消えるまでは」

「ど、どうしてあなたが知ってるのよ」

 うろたえると、ユーグはにっこりした。

「アドリエンヌから聞いたのさ。見たわけじゃないからご心配なく。彼女は信用できる女性だから安心していい」

「ま、待って! その……、どうしてそんなに親切にしてくれるの」

「どうにかして〈すみれの王冠〉を見つけたいからね」

 澄まして笑い、優雅にお辞儀をしてユーグは出て行った。とり残されたクロエはサファイアの指輪をのろのろと指に嵌め、自嘲気味に呟いた。

「……ばか。どんな答えを期待してたのよ」

 クロエは書き物机の前に座り、八つ当たりのように鵞ペンを削り始めた。

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