第20話

 それから一時間ばかりかけて身なりを整えた。アドリエンヌとその侍女のなすがまま、クロエはほとんど着せ変え人形と化した。二日酔いの名残でいまいち顔色が冴えないが、化粧水で顔を拭き、薄く白粉をはたいて頬紅を淡く差すとだいぶ見栄えがよくなった。

「疲れたふうを装うのは、もっとおとなになってからでいいのよ。とにかく若い娘は健康そうなのがいちばん」

 やわらかな薄緑と薔薇色のドレスをクロエに着せ、一緒になって鏡を覗き込みながらアドリエンヌははしゃぎ声を上げた。

「まぁ可愛いこと! 花の精みたいよ。今度うちでお芝居をするときに、花の妖精役で出演してもらおうかしら。さ、髪も素敵に仕上げましょうね」

 ゆるく結い上げた髪に造花とリボンを飾って、ようやく完成。身支度がすむとアドリエンヌはクロエを奥まった一室へと連れて行った。居心地のよい小さめのサロンで、部屋の壁は淡い青に金と白で縁取りが施され、優雅な小卓や繻子張りの安楽椅子の他にチェンバロも置かれている。

「これから午後の面会の支度があるの。お相手できなくてごめんなさいね」

「いえ、どうぞお構いなく」

「晩餐に出かける前に軽いお食事をご一緒しましょうね。それまでゆっくりしていらして。こちらの棚に本が入っているし、楽器も好きに使ってくださいな」

 アドリエンヌが出て行くと、クロエはほっと息をついて長椅子に腰を降ろした。

 あの美貌と巧みな話術。アドリエンヌには熱心な崇拝者が、それこそ掃いて捨てるほどいるに違いない。挨拶するだけで精一杯の者もいるだろう。きっと兄はそんなひとりだ。

 オーレリアンは容姿と家柄に関しては申し分ないが、財産や気の利いた会話には残念ながら縁も才もない。機知に富んだ会話ができなくては、どこのサロンでも相手にされない。オーレリアンはけっして他人をけなさないが、ただ褒めるだけなので会話が進展しないのだ。

 兄のことを思い出すと急に落ち着かなくなり、クロエはそわそわと室内を歩き回った。

「お兄様、わたしがここにいることをご存じなのかしら……」

 さっきアドリエンヌに確認しておけばよかった。二日酔いの影響で頭がぼんやりしていたのか、すっかり失念していた。

 そう。ジルベールはどうしただろう。まさか、店の外でずっと待ちぼうけ? ジゼルも屋敷で気を揉んでいるに違いない。目が覚めたらすぐにも家に帰るべきだったのだ。のんびり食事などいただいている場合ではなかった。

 クロエは自分の頭をこつんと叩いた。まだ少し頭痛がする。

「……何やってるのよ」

 溜息をつき、クロエは力なく長椅子に座った。今すぐ帰りたいなどと駄々をこねては面会中のアドリエンヌに迷惑がかかる。しばらくはここで待っているしかない。

 ふと、チェンバロが目についた。子どもの頃習っていたことを思い出すと懐かしくなって、クロエはチェンバロの蓋に触れてみた。家にあった楽器類はだいぶ前に売り払ってしまった。兄のヴァイオリンも。屋敷から音楽の調べが消えて久しい。

 クロエは椅子に座り、鍵盤に指を置いた。誰もいないのだから、と思い切って弾き始める。以前習った曲を思い出しながらたどたどしく弾いていると、そのうちに少し指が動くようになった。

 いつしか夢中になって弾き終わり、ほっと息をついたとたんに背後で拍手の音がした。振り向くと、銀灰色の髪をした美しい青年が、安楽椅子でゆったりと脚を組んで微笑んでいた。

「……ユーグ・アスラン!」

 弾かれたように立ち上がり、クロエは顔の紅潮を怒りにすり替えた。

「失礼な人ね! 黙って入ってくるなんて」

「ノックはしたよ。聞こえなかったようなので、勝手に入らせてもらった」

 悪びれもせず、けろりと彼は答えた。クロエはつんと顎を上げ、わざわざ離れた場所にある長椅子を選んで座った。

「そのドレス、よく似合ってるね」

「借りものよ」

「アドリエンヌより、きみが着たほうがよほど映える」

「よくそんなことが言えるわね。あなた、彼女の愛人なんでしょ」

 ユーグは黙ったまま、口の端でにやりとした。そんな彼の態度に動揺している自分に気付き、クロエはさらに焦った。

 なだめるような口調でユーグが尋ねる。

「マドモワゼル。そちらへ行ってもいいだろうか」

 どきんとしたクロエは慌てて顔を背けた。

「な、なぜ? お話ならそこでなさったらいいわ。ちゃんと聞こえます」

 苦笑する気配に靴音が続き、クロエの許可を得ないままユーグは長椅子の反対側に腰を下ろした。おとな三人がゆったりと座れる大きな椅子なので、端と端ならさほど近すぎるということもない。

「渡したいものがあるんだ」

「何ですの」

「手を出して」

 仕方なく左手を差し出すと、ユーグが掌に何かを載せた。横目でしぶしぶ窺い、クロエは思わず目を瞠った。青みがかった紫の石が嵌まった指輪。母の形見の指輪だ。

「これ……! どうしてあなたがこれを? これはお兄様に渡したのよ」

「うん、侯爵から預かってきたんだ」

「家に行ったの?」

 反射的に非難する口調になってしまう。ユーグは眉根を寄せて苦笑した。

「きみがここにいることを知らせにね」

 クロエは言葉を呑み、指輪を見つめた。

「……兄は何と?」

「すまない、と、そう言ってた。まるで今にも死にたそうな顔をしていたよ」

 指輪を手のなかに握りしめ、うつむいて消え入りそうな声で囁いた。

「ごめんなさい……」

「どうして謝るんだ?」

「助けてもらったのに失礼だったわ。わたし、本当に怒りっぽくて――。ごめんなさい」

「女性の危機を救うのは当然さ。美女を救い出すのは古からの男のロマンだし」

 本気だかふざけているのかわからない口調で、ユーグがうそぶく。クロエはうつむいたまま小さく噴き出した。

「残念だったわね、ヘレネのような美女じゃなくて」

「ふむ、どちらかと言うときみはアンドロメダ姫だな」

「あいにくアンドロメダほどおとなしくないわ。それにしても、よくそうすらすらと出てくるわね。いつもそんなふうに口説くわけ?」

「口説いてなんかいないさ。単なる正直な感想」

「そうよね、あなたは人妻しか口説かないんだから。そんな不埒なペルセウス、いるわけないけど」

「乙女よ、あなたを縛るなら恋人同士をつなぐ鎖でなければなりません。どうぞあなたの名と、縛られているわけを教えてください」

 芝居がかった口調で囁いて忍び笑う声が、ひどく腹立たしくてやるせない。クロエは揺らぐ自分を叱咤するように口調を荒らげた。

「どうしてわたしを助けるのよ!?」

「それはきみ、当然の──」

「そうじゃなくて! 三回も偶然助けられるなんて、ありえないわ。最初と二回目は偶然かもしれない。舞踏会に賭博場。人が大勢集まる場所だからあなたがいても不思議じゃない。でも、昨夜は絶対に違う。たまたま通りがかっただけだなんて言わせないから! うろ覚えだけど、盛り場からはずっと離れた場末だったはずよ。しかも真夜中を相当過ぎてたわ。いくらわたしが世間知らずのばかな小娘でも、それくらいのことはわかります!」

 一気にまくしたて、クロエは黙っているユーグを睨み付けた。

「わたしを見張ってたんでしょう」

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