第4章 黒い仮面の女
第12話
「あなたも懲りないひとですね、公爵」
ユーグの表情は無感動で、怒りや侮蔑の色は浮かんではいない。だが彼の瞳は恐ろしいほど冷たかった。まるで、一度も陽光を浴びたことのない深い深い海の底から切り出した蒼い氷を、刻んで嵌め込んだかのような……。その極限の冷たさには、庇われたはずのクロエさえ凍りつかせるにじゅうぶんな迫力があった。
まともに凝視されたフロンサック公爵が、ひくっと顔をこわばらせる。ひるんだ隙をつき、ユーグはさりげなくふたりのあいだに割って入った。
ちら、と横目でユーグを窺った公爵の表情がわずかにゆるんだ。クロエからユーグの顔は見えないが、抜き身の刃めいた剣呑さがいくぶんやわらいだように感じた。公爵は高慢そうに顎を上げ、気まずさと不機嫌さの入り交じった顔で銀髪の青年を睨んだ。
「ユーグ。きみは他人の恋路を邪魔するのが趣味なのか? それとも私を見張っているのかね。そりゃあ、きみほど美しい男に見つめられて悪い気はしないが」
応じたユーグの声は剃刀の一閃を思わせた。
「あまり無体がすぎると、脅しではなく本当に監獄に放り込みますよ」
フロンサック公爵は鼻で笑ったが、無理して強がっているのが見え見えだ。
「き、きみにそんな権限などない……」
「権限はなくとも、権力を握っている人間に対して僕は信用がありますから。あなたもよくご存じのはず」
公爵は急にそわそわと落ち着かなげに身じろぎした。
「……ちょっとした悪ふざけさ。
「相手を選ぶことですね。さもないと、ご指定以外の監獄で孤独を託つことになりますよ。もちろん面会も差し入れもいっさい禁止」
「わかった! わかったよ、ユーグ。もう勘弁してくれ」
わずらわしげに手を振りまわすと、フロンサック公爵は挨拶もなしにそそくさと去っていった。ユーグの背後で見ていたクロエは、憤然と眉をつり上げた。
「一言の詫びもなし? なんて失礼なひとなの」
振り向いたユーグは、片眉を器用に上げ、うんざりした顔でクロエを睨んだ。鋭利すぎる気配は去っていたが、今度は明らかに不機嫌そうだ。
「きみが不用心すぎるんだ。ここは未婚の若い娘がひとりで来るような場所じゃない」
「ひとりじゃないわ。ジルがいるもの」
「いいからとっとと家に帰りたまえ。世間知らずのお嬢さん」
「言われなくても帰るわよ!」
突き放すような物言いにムッと来て、即座に踵を返す。慌ててジルベールが後を追った。と、爪先に激しい痛みが走り、あわててついたステッキがワックスの効いた床ですべる。
「お嬢様っ」
ジルベールが支えるより早く、ユーグの腕が伸びた。
「放っといて──」
反射的に叫んだ声が、中途半端に途切れた。軽蔑の表情を向けられるとばかり思ったのに、ユーグの端麗な顔に浮かんでいたのは困惑気味の苦笑だったから──。
「掴まって。外まで送るよ。いま、従者に辻馬車を呼ばせる」
クロエは憮然として目を逸らした。
「……けっこうよ。歩いて帰るわ」
「こんな状態で? 足が痛いんだろう」
「お金がないの!」
やけになってクロエは叫んだ。情けなくて涙が出る。きっとばかにされた。爵位を持つ貴族なのに、まめのできた足をひきずって橋を渡り、暗い夜道を家まで歩いて帰らなければならないなんて。そんなこと、このひとにだけは知られたくなかった──。
うつむいたクロエの肩を抱き、ユーグは穏やかに告げた。
「家まで送ろう。──ラファエル、馬車を呼んでくれ」
「かしこまりました」
落ち着いた声に顔を上げると、上背のある黒髪の男が足早に通りすぎた。黒眼鏡をかけた横顔からは、表情はまるで読み取れなかった。
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