第13話

 ガラガラと車輪の音が石畳に反響する。薄暗い馬車の座席に座り、クロエは膝の上で握りしめた自分の手を見つめていた。向かいに座ったユーグは黙って窓の向こうを眺めたまま何も言わず、何も訊かない。

「……ありがとう」

 小さく呟くと、ふと我に返ったようにユーグがこちらを向いた。クロエは思い切って顔を上げ、まっすぐに彼を見つめた。

「あなたには二回も助けてもらったのに、お礼も言ってなかった。ごめんなさい。──ありがとう、おかげで助かりました」

 ふ、とユーグの表情がやわらぐ。角灯ランテルヌの乏しい灯でも彼の微笑みはこのうえなく優美で、クロエは思わず見とれてしまった。それに気付くと頬が熱くなり、急いで目を伏せる。

「どういたしまして」

 微笑をふくんだ声が返ってきた。水晶のきらめきと天鵞絨ビロードの艶めきをかね備えた魅惑的な声。

 まるで夜空から降る星のよう。兄のオーレリアンがひだまりの天使なら、ユーグは夜空を渡る天使だ。美しく、謎めいて、底知れない──。

「どうして何も訊かないの?」

「きみが話したいのなら喜んで聞くよ」

 穏やかな答えに、クロエはきゅっとスカートの生地を握りしめた。

「……もうわかってるんでしょう。立ち聞きしてたんだから」

「僕が聞いたのは、アルマンがきみにもちかけた恥知らずな提案だけさ。彼がきみに近づくまでは遠くから眺めてた。こんなところで何をしているのかと」

 クロエはばつの悪さに身じろいだ。

「誤解しないで。いくらなんでも、あんな取引をするつもりはないわ」

「もちろんわかってるさ」

 駄々っ子をなだめるようにユーグは頷いた。しばし沈黙が降り、車輪の音だけがけたたましく響く。

「……クロエよ」

 ユーグのとまどい顔に顔を赤くして、早口で続ける。

「わたしの名前。クロエ・フランシーヌ・ド・ヴュイヤール。……知らないかと思って」

 微笑んだユーグの顔は、知っていたとも知らなかったとも、どちらとも取れるものだった。クロエはわざと怒ったような口調を装い、気恥ずかしさを誤魔化した。

「あなたも名乗ったらどう。だいたいあなたのほうが先に名乗るべきなのよ」

「そうだったね。──僕はユーグ。ユーグ・アスランだ」

「あなたは何をしているの、ユーグ」

「別に。ただぶらぶらしてる。きみの嫌いな悪党ルエだよ。フロンサック公爵よりはいくらか安全というだけの、ろくでもないならず者さ」

「うそ。だって、権力者に信用があるって言ってたじゃない」

「信用というのはね、必ずしも客観的なものとは限らない。佞臣の言葉にばかり耳を傾ける君主なんて、めずらしくもないだろう?」

 ユーグはがらりと表情を変え、ふざけたようにニヤリとした。

「──そんなに僕に興味があるんだ?」

 涼しげな美貌がいきなり近づき、クロエは座席に背を押しつけた。

「べ、別に、興味があるわけじゃ……。ただの世間話、社交辞令よ!」

「悪いけど、僕はうぶなお嬢さんにはぜんぜん興味がないんだ。口説かれたければ人妻になって出直してもらわないと」

 仮面舞踏会の時にも聞いた台詞を、ユーグは悪びれもなく繰り返す。クロエは頬を染めて怒鳴った。

「違うって言ってるでしょ! やっぱりあなたなんか悪党ルエだわっ」

「だからそう言っただろ?」

 くすくすと、余裕で彼は笑う。むかっ腹をたてたクロエが、知ってる限りの悪口雑言を吐いてやろうと息巻いたそのとき、馬車の速度が落ち、がたりと音をたてて止まった。

「到着」

 いたずらな声でユーグが囁く。馬車の後部から飛び下りたジルベールが、いそいそと扉を開けた。先に降りたユーグの手をしぶしぶ取って馬車から降りる。御者と並んで黒眼鏡の従者が座っていた。外套ルダンゴットの襟を立て、顔だちも年格好も確かめようがない。

「では、お嬢さん。おやすみボン・ニュイ。もう二度とあんな悪所へ出入りしてはいけないよ。カネの工面は、そもそもの元凶である兄上にやらせるべきだ」

 優雅にお辞儀をして、ユーグは馬車に乗り込んだ。御者台から降りた従者が後に続き、ぴしゃりと扉を閉めた。

「できるならそうしてるわよ……!」

 去っていく馬車を睨み、クロエは悔しまぎれに舌を突き出した。


     *   *   *


「──どうして取り入らなかったんです?」

 侯爵邸が後方の夜闇に溶けた頃、ラファエルが尋ねた。ユーグは窓外に目を向けたまま黙っている。黒髪の従者は無感動に続けた。

「あなたなら、世間知らずの娘をたらし込むくらいお手のものでしょう」

「人を色魔みたいに言わないでくれないか」

「おや、違ったんですか」

 さも意外そうな声音に、ユーグはじろりと従者を睨んだ。

「あのな、ラフ。色魔というのはアルマンみたいな奴を言うんだ。彼は趣味の行き過ぎ、俺のは単なる仕事の一環。ま、役得がないとは言わないが」

「だったらクロエ嬢をダシにしてあの家に入り込み、侯爵夫人を籠絡すればいいだけのことです。前にもそう提案したはずですがね」

「ちょっと考えてはみたけどね。あまり気が進まないな。世間知らずの娘と過去の思い出だけに生きているような老婦人を『たらし込む』のはどうもね……」

「柄にもなく優しげなことをおっしゃいますね」

 ラファエルは眉一筋動かさず、辛辣に切って捨てた。

「別にそんなんじゃないさ。ちょっと調子が狂っただけ」

「あまりのんびりしている時間はないのでは。……ああ、そういえば摂政公が」

「何だよ。経過報告をしろとでも?」

「いえ。是が非でも新作料理の試食に来いとおっしゃっていました。もし来ないと」

「来ないと、何だ」

 ユーグはうさんくさそうに従者を横目で見る。ラファエルは他人事のようにそっけなく肩をすくめた。

「さぁ? そのあとは何もおっしゃらず、ただニタァと不気味に笑われるばかりで」

「……行く」

「それがよろしいかと」

 口の端で笑ったラファエルは窓を開け、御者に向かって車輪の音に負けじと大声を上げた。

「パレ・ロワイヤルへ!」

 ぴしりと手綱が鳴る。馬車は速度を増し、角灯ランテルヌに照らされた夜の街を疾走した。

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