第14話

「遅かったじゃないか。心配してたんだぞ、クロエ」

 オーレリアンは玄関先でがばっと妹を抱きしめた。

「た、ただいま、お兄様……」

「おや? 馬車はどこだい? 代金を払わなきゃと思って急いで出てきたんだが」

 不思議そうに外を見る兄の姿に、クロエは小さく咳払いをした。

「え、っと……、実は送ってもらったの」

「誰に? 今度お礼を言わなきゃ」

「その、……ムッシュウ・アスランよ」

 クロエのマントを脱がせてやりながら、オーレリアンは訝しげに眉をひそめた。

「アスラン? もしかして、アスラン警視のことかい」

 予想もしない言葉が飛び出し、クロエは目を見張った。

「け、警視? いえ、違う……と思うわ。ぶらぶらしてるだけだって言ってたもの。名前はユーグよ。めずらしい銀灰色の髪をしてるの」

「〈銀のユーグユーグ・ダルジャン〉!」

「え? あのひとのこと知ってるの、お兄様」

 妙に嬉しそうな顔で、オーレリアンは頷いた。

「当然だよ。あの並外れた美貌に優雅な物腰、ご婦人がたが放っておくわけがない。どこのサロンでも引っ張りだこさ」

「……お兄様のほうがずっときれいだわ」

 むくれるクロエに、オーレリアンは苦笑した。

「嬉しいけど、それは身内の贔屓目だよ。僕は彼のような当意即妙な受け答えとか、ぜんぜんだめだしね。どうも機転が利かなくて。それに、彼は賭け事も得意なんだ。玉突きでもファラオンでも、負けたところを見たことがない」

 オーレリアンは少年のように純な憧れを蒼い瞳に浮かべた。その声にも表情にも、やっかみはみじんも感じられない。意志の弱さや生活能力の欠如など、どうしようもない欠点は多々あれど、オーレリアンは人をうらやんだり恨んだりすることはけっしてないのだ。

 クロエはそういう兄の美点を心から愛している。だからつい兄に対して甘くなってしまうのかもしれない。

「話しかけるきっかけができたぞ。うん、妹を送ってくれたお礼をちゃんとしないとね。よし、今度見かけたら思い切って声をかけてみよう!」

 嬉しそうにはしゃぐお気楽な兄に、クロエは苦々しく嘆息した。

「お兄様……、わたしをダシにするつもり?」

「いいじゃないか。だって彼、誰にでも礼儀正しくて愛想がいいけど、何となく近寄りがたい雰囲気があるんだよねぇ」

「礼儀正しくて親切……?」

「だって親切じゃないか。わざわざ家まで送ってくれたんだろう? それとも何、絡まれでもした?」

「というか、絡まれてたのを助けてもらったの」

 それはたいへんありがたいのだが、その後がいけない。あの人をくった物言いは何とかならないものか。だが、彼がフロンサック公爵を止めてくれなかったら今頃どうなっていたことかと思えば──。

「それはそうと、クロエ。あいつ何て言ってた? ダリエはしばらく待ってくれそうかな」

 真顔に戻ったオーレリアンが不安そうに尋ねる。クロエは眉間にしわを寄せて首を振った。

「交渉の余地なし、ね。向こうもすぐにでもお金が必要みたい」

「今さらだけど、あんなに飲むんじゃなかったよ。カードや玉突きをしながら飲んでたのは覚えてるんだけど……。あと、店を出たのもぼんやりと記憶にある。外が寒かったから少し酔いが醒めたんだな」

 ふと、クロエは兄の言葉に引っ掛かりを覚えた。同時に、ダリエと話をしていたときから感じていた漠然とした違和感が、にわかに頭をもたげ出す。

「……ねぇ、お兄様。指輪をダリエに渡したことは全然記憶にないの?」

「ない。綺麗さっぱり、ない」

「じゃあ、借用書に署名したことは?」

「それもすっぽり抜けてるんだ。いくら思い出そうとしても思い出せなくて」

「ということは、ものすごく酔ってたのよね。ぐでんぐでんに酔っぱらってたのね?」

「う、うん……。まっすぐ歩けなくて、友だちに肩を貸してもらった」

 情けなさそうにオーレリアンは眉を下げた。

「……そうよ。どうして気付かなかったのかしら」

「クロエ?」

「きれいすぎたの。記憶が飛んで、ひとりでまっすぐ歩けないほど酔っていたのなら、あんなにきれいに署名なんかできるはずないわ」

 インクのかすれもなく、さらさらと書かれた署名。クロエはぽかんとする兄に、きっぱりと告げた。

「あれは偽造よ」

「ど、どういうことだい?」

「わからない? 指輪は盗まれたの。ダリエが抜き取ったのよ。お兄様が泥酔して意識が飛んでいる隙にね!」

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